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大岡昇平の行人論


筆者は前稿「『行人』と『心』:漱石を読む」の中で、この二つの小説がともに長い手紙で終っていることに触れ、「心」の場合にはその位置付けに必然性のようなものが見られるのに対して、「行人」の場合には、「なぜここに置かれなければならなかったか、必ずしも必然性があるとはいえず、また一篇を引き締めるような効果にも乏しい。むしろ、小説の構成としては、このような形で終っていることは、中途半端な印象を与えるともいえる」と、とまどいの気持を表明したところだが、その謎の一端を、大岡昇平が解明してくれた。

大岡昇平は、「文学と思想」という小論(「小説家夏目漱石」所収)の中で「行人」を論じ、二郎と嫂の関係を中心に進んできた前段の部分と、「塵労」と題する手紙の部分との間には、大きな断絶があるとしたうえで、その断絶は漱石の病気(胃潰瘍)と関係があるという。前段では、二郎と嫂との関係が次第に進行し、不倫と言う結末に向って進んでいたに違いないのが、胃潰瘍の悪化によって中断し、それを再開した時には、当初抱いていたに違いない構想を変更して、現存のような形にした。そうすることによって、「小説として立てつけが悪くなる」のを漱石は知っていたに違いない。それでもこうした訳は、つまりこの二人に不倫をさせなかったのは、「やはりそれを書くのがいやだった」からだというのである。このいやだという気持と、やはり書かねばならぬという気持が大きな葛藤をもたらし、それが漱石の持病である胃潰瘍を悪化させたというわけである。

筆者は、なるほどそんな推理も成り立つのかと思って、改めてこの小説の執筆経過にあたってみたところ、たしかに前段と後段との間に五か月の中断期間がある。大岡は、この五か月の間に、漱石の気持に大きな変化が生じ、その構想を改めたと推測するわけだが、そう言われればそうかもしれぬ、と迂闊ながら思った次第だ。

大岡は、この推理を、伊豆俊彦の「行人」と題する論文をヒントにして思いついたと言っている。伊豆に寄れば、当初の構想は、あくまでも二郎と嫂の関係を軸に進むことになっており、この二人は姦通の成立まで突き進む。つまり、この小説も、「門」以前の三部作同様、姦通のテーマの延長線上にあった作品として出発したというのである。伊豆は、二人の不倫を知った一郎が発狂したうえ、妻のお直を殺し、自分も死ぬというような段取りを想定したが、大岡は、それでは通俗的過ぎると言って、一郎は一人で自殺してしまうのではないかなどと、あらぬ空想を働かせている。

ともあれ、どういう結論になろうとも、この小説が姦通をテーマに書き始められたことはたしかであり、それが長い中断を挟んで、現存のような形に変更されたことは間違いない、と大岡は推論する。その結果、小説にカタストロフィが生じず、中途半端な始末に終わってしまったわけだが、そうすると、何故漱石は、そのような選択を取らざるをえなかったのかという疑問が湧いてくる。

大岡はそれを次のように推論している。漱石にはもうひとつの持病として神経衰弱というものがあった。漱石には、この病気に対する自覚があったようで、小説の中でその苦しみを描くことで、自分自身の精神的な苦しみを軽減しようと試みる傾向があった。その漱石が、「行人」執筆の直前、かなり深刻な神経衰弱に陥った。そこで、ここでも一郎を介して自分の神経衰弱の症状を描きながら、小説としては従前の姦通のテーマを描こうとした。ところが、小説の進行に伴い、神経衰弱の症状が緩和されるどころか却って悪化し、又それに伴って胃潰瘍の症状も深刻化した。そうした状況に直面して、漱石はこの小説を、当初の構想通り書き継ぐことができなくなり、現存のような形で妥協せざるを得なくなった。大岡は、こんな風に推論するのである。

こう整理されると、この小説が漱石自身の精神疾患を反映したものだと考える筆者の見方とつながるところが出てくる。筆者も、これは漱石が自分の精神的な体験を材料にしていると推測したわけだが、しかしそれが、自分の精神症状を緩和させるための自家療法の試みだったとまでは思い至らなかった。もし漱石が本気でそう考えていたとしたら、漱石には精神分析の知識があったということになるが、果してどうなのだろうか。

ともあれ、この小説が、二郎と嫂の関係を中心にした前段の部分と、一郎の友人Hの手紙の形をとった後段の部分との間で、深い断絶があることは、大方の研究者が指摘するところらしい。彼らの抱いた疑問を、筆者もまた抱いたというわけなのだろう。

なお、この小説の中での、一郎の妄想には鬼気迫るものがある。上述の推論に理由があるとすれば、その妄想は、漱石自身の妄想であった可能性が強いということになる。漱石は深刻な被害妄想の症状に何度か見舞われているが、「行人」執筆中にもその症状があらわれ、日常生活のうちでも、妻や女中に対して、自分に対して何か企んでいる、といったような被害妄想を抱いたようだ。そんな妄想が、小説の中の一郎の異常な行動につながっている可能性は十分考えられる。

ところで、大岡のこの小論は、題名にもあるとおり、漱石における「思想」の意義についての考察である。その「思想」を大岡は、「思想の担い手自身を幸福にするにも役立たず、むしろその人間を食い尽くすものとして提示されています」と総括しているが、この言葉の意味を解説するためには、もう一つ別の論稿が必要となろう。




  
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