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夏目漱石「行人」を読む


夏目漱石の「行人」はいろいろなエピソードが盛られているので賑やかな結構の小説のようにも読めるが、枝葉を落して根幹を取り出してみると、人間の狂気についての漱石なりの考えを述べたものだというように受け取れる。その狂気は、そんなに大袈裟なものではない。一種のノイローゼ(神経症)ともいえるようなものだ。そういうノイローゼなら、漱石自身が自ら体験したこともあったのだろうと思われる。これは憶測だが、「行人」とは漱石自身のノイローゼ体験を描いたものなのではないか。

ノイローゼになっているのは小説の語り手(「自分」と自称している)の兄ということになっている。この兄の言動が、弟の「自分」の眼には不可解に映る。兄は、精神病になったらさぞ生きるのが楽になるだろうというようなことを言って「自分」を混乱させたあと、妻が弟に不倫の感情を持っているのではないかと疑い、妻の貞操を確かめるよう弟に迫ったりする。また、妻を始め家人に対しても異常な行動をするようになり、次第に周囲から迷惑がられるようになる。

そこで弟である語り手は、第三者の目を通じて確かめたいとも思い、兄の友人を説得して兄を旅行に連れ出してもらい、旅行中の兄に異常な言動が見られないかどうか、よく観察して欲しいと依頼する。小説のかなり長い末尾は、この友人から語り手宛にしたためられた手紙と言う体裁をとっている。その手紙の中で、友人もまた、兄がノイローゼに罹っていることを確認するわけである。ただしこの友人は、兄のノイローゼを否定的には捉えていない。それを精神の高貴さから起こる病だというように捉えている。

こんなわけでこの小説は、語り手の兄の心の病を、いくつかの角度からあぶりだしたもの、という体裁を取っている。だが、そのいくつかの角度に、あまり強い関連はない。小説の前半では、兄によって嫂の貞操を確認するように命じられた語り手が、嫂と二人きりでハイキングに出かけ、ふとしたことから一夜を共にする場面が描かれるが、この場面では、兄の狂気よりも、語り手とその嫂とのもつれた関係の方が表面に出ている。兄は自分の妻が弟である語り手に惚れているのではないかと疑っているのだが、語り手の弟の方も、嫂と接しているうちに、嫂から濃厚な色気がただよってくるのを感じ、思わずセクシャルな気持ちを抱くようになるといった、別の物語に摺れ変っている。この部分だけを読めば、漱石一流の、姦通のバリエーションと思えるほどだ。

友人からの手紙の中で描かれた兄の姿は、心を病んでいるということを彷彿させるのみで、語り手や嫂がこの兄に対して日頃抱いていたものと、あまり深い関連がない。兄は弟に対して、自分の妻がお前に惚れているに違いないから、それを確認しろと無理に迫ったにかかわらず、手紙のなかではそうしたことは一切話題に上らない。手紙の中での兄は、妻を殴ったというように書かれているが、どのような理由で殴ったのかは触れられていないし、ましてや、妻の不倫を疑っているなどということは一切言及がない。つまり、兄と言う人物を取り巻いて、その弟やら妻やら友人やらが、さまざまな観察をするわけだが、それぞれが勝手な見方をしているだけで、その間に共通するところがないのだ。

狂気と言うことでは、この小説にはもう一人の、これは本物の狂人が登場する。これは語り手の友人三沢という男に関わりのある女で、嫁入り後まもなく、気が狂ったことを理由に追い出された女性なのだが、それが三沢と言う男に向かって、夫婦めいた態度を示した、というものだ。この女がそんなことをできたのは、気が狂っているからであって、正気ではとてもできなかっただろう。だから、その女が三沢と言う男に惚れていたということが本当なら、狂っていることは、その女にとっては幸いなことだったのだ、というような見方も示される。つまり、この挿話の中でも、狂うということは、一概に悪い事ばかりともいえない、と言われているわけである。

こんな次第で、この小説にはやたらに狂気の話が出てくる、といった印象を与える。といっても、小説全体が狂気を中心に展開していく、というわけでもない。語り手と嫂との危うい関係や、語り手の兄弟とその父親とのすれ違いの間柄など、小説の本筋とは関係のないところで、読ませる工夫がなされている。しかしその工夫が微に入り過ぎて、小説全体としてまとまりのない印象がある。これはおそらく小説の構成術にかかわるところだ。漱石はこの小説を当初、「彼岸過迄」と同じように、いくつかのエピソードをつなげていくつもりで書きだしたのではないか。それ故、それぞれのエピソードにかなりな自立性があって、エピソード同士が互いに緩やかにつながっている、といった印象を与えるのではないか。

登場人物の中でもっとも存在感のあるのは、嫂だろう。この小説の前半は、この嫂と語り手との関係が中心になっている。その関係はあやうく不倫の域にはみ出しそうにもなるが、そこは語り手の自重が働いて、逸脱せずに済む。だが、そのことを、嫂の方では不服そうに捉えているフシがある。彼女には、語り手と不倫をしてもかまわないというような意気込みが感じられる。その意気ごみが、彼女を強い女に見せ、彼女の存在感を強めているわけだ。だが漱石は、彼女の意気込みをあまり深く追求することはなかった。小説の前半で強い存在感を示していた彼女が、小説の後半では全く影をひそめてしまうのだ。



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