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明治末の送葬:漱石「彼岸過迄」


「彼岸過迄」の「雨の降る日」と題した章は、松本の末娘宵子の死と送葬が主なテーマだ。まだあどけない宵子は、千代子の目の前で、まるで変死のような変った死に方をした後、火葬に付される。その火葬を描いたところが現代人の我々には興味深く映る。

前稿で言及した通り、火葬場は上落合にある。その火葬場は、徳川時代の昔からそこにあり、21世紀の今でもその場所にある。その名称は落合斎場といって東京博善という民間会社が運営している。日本の火葬場は自治体が運営するのが普通だが、東京だけは、徳川時代から民間が運営してきた経緯があって、それが今日まで続いているわけである。博善が運営する火葬場は、この落合の外、町屋、四ツ木、堀の内、桐ケ谷、代々幡の合せて六ヶ所である。

宵子は、自宅での通夜や寺での読経を終えた後火葬場に運ばれて火葬炉に入れられ、一晩かけて焼かれる。今では、火葬に要する時間は一時間ほどで、送葬者は死者が骨になるまで待合室で待つというのが普通だが、明治時代の末頃には、まだ薪で焼いていたために、火葬には長い時間がかかったのだ。

面白いのは、火葬炉に等級があることだ。宵子は上等の炉で焼かれている。並等と上等とでどのような相違があるのか、漱石の文章からはわからない。ただ、宵子の炉には、扉の錠前をあける鍵や、錠前の封印といった記述があるから、あるいはこうした部分で差別化を図っているのかもしれない。今の東京では、瑞江葬儀所などの公営の火葬場ではこうした差別化はしていないが、博善の火葬場だけは、今でも炉に等級を設けているようだ。等級を設けたからといって、焼き方に相違があるわけではないのだが。

骨上の場面では火葬場の職員が三人出てくる。この職員のことを漱石は、伝統的用語を用いて御坊と呼んでいる。御坊は隠坊とも書く。徳川時代からあった職業だ。徳川時代にはこの人々が、野に積み上げた薪の上に棺を乗せ、一晩かけて焼いたものだ。野焼のことだから、煙が周辺まで漂い出た。したがって火葬場というものは、非常に嫌われたものだった。

今の火葬場は、火葬炉の中に棺を入れ、それをガスで焼く。ガスの温度は高温で七百度乃至九百度もある。だから大人でも一時間余りで焼けるのだし、宵子のような子供なら三十分もあれば十分なはずだ。それが、一晩を要したというのは、火葬炉の中で薪を燃やしたからだろう。それを燃やし続けたのは、ここで御坊と呼ばれる職員だったはずである。

今では、火葬後の骨はまっ白い綺麗な状態で焼きあがるが、宵子の場合には、あまりきれいな状態ではなく、しかも原形をかなりとどめている。たとえば、「例のお供えに似てふっくらと膨らんだ宵子の頭蓋骨が、生きていた時そのままの状態で残っているのを認めて・・・」というような記述があるし、歯もそのままの状態で残っている。歯などというものは、今では形を残さず焼け尽きてしまうものだ。

骨を拾うのに木箸と竹箸を一本ずつ用いるのは、この時代の東京の風習だろう。面白いのは、その箸をめいめいがそれぞれ持っていることで、これは一対の箸を皆で使い回しする今日の風習とは違っているところだ。

火葬炉の内部がどうなっているのかについては分からない。ただ、棺を乗せた台車を、レールを用いて引っ張り出すという記述があるから、おそらく腰の高い、金属製の棒で編んだ台車の上に棺を乗せて炉内に収容し、背後から人が炉の底のほうに薪を放り込んで焼いたのであろう。今では、バーナーは炉内の上部にあり、棺に向かって上から炎を浴びせる、というふうになっている。

この場面を書くために漱石は、火葬場に直に赴いて、その構造やら方法やらについて、綿密な調査をしたのだろうと思う。



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