日本語と日本文化


「彼岸過迄」に描かれた東京の地理


漱石は「三四郎」と「それから」の中で、主人公の行動にあわせて東京の地理をかなり詳しく描いた後、「門」では一変して暗示するにとどめ、詳しく書くことはなかった。それで筆者などは、宗助の住んでいる場所を、九段下から徒歩二十分ばかりの傾斜地だろうとばかり推測するほかはなかった。ところが、「彼岸過迄」では一変して漱石は、東京の地理を再び詳しく描いている。これも久しぶりの読者サービスだったのかもしれない。

まず主人公たる啓太郎の住んでいるところ。これは本郷の下宿だとなっているが、本郷通り近くの東大と通りを隔てた反対側の住宅街のようである。この辺りには学生相手の下宿が集まっていて、大学を卒業したばかりで未だ定職のない啓太郎が、学生時代の延長でずるずる住み続けているということになっている。

啓太郎の友人須永が住んでいるところは、小川町の一角である。須田町のほうから歩いて来て、右へ入った路地に面しているといっているから、今でいう小川町交差点の北東にあたる一角である。啓太郎の下宿とは、本郷通りでまっすぐつながっているから、啓太郎は本郷通りを走る市電に乗って行き来することができるわけである。

須永の母方の叔父田口は内幸町に住んでいる。これも本郷通りの先に伸びる日比谷通り沿いにある。須永のもう一人の母方の叔父松本は牛込の矢来町に住んでいる。啓太郎は、田口に命じられた仕事で松本を尾行しているうちに、市電で江戸川(今の地下鉄江戸川橋駅付近)に至り、そこから雨の中を、人力車を飛ばして矢来町まで来たのだった。

田口に命じられた仕事というのは、小川町の交差点に立って、三田方面から来た市電から下りたある男性を尾行して、その行動を報告せよというものだった。そこで啓太郎は、三田方面から来る市電の停留所を探すのだが、これが二か所あるということがわかった。ひとつは交差点の北東側にあって、これは本所亀沢町方面行きの停留所である。もう一つは交差点の南西側にあって、こちらは巣鴨方面行きの市電がとまる。つまり、市電の小川町停留所は、三田方面から来た電車が、そこで東西に枝分かれする分岐点になっているわけである。

「門」では、宗助が丸の内方面から市電に乗って神田で乗り換え、九段方面行きの終点で下りて自宅へ向かうというように書かれていた。それを筆者は、丸の内の役所(東京府庁)につとめる宗助が京橋辺りから市電に乗り、神田須田町で九段方面行きに乗り換えたというふうに解釈したわけだが、もしかしたら宗助は、馬場先門から市電に乗り、小川町で乗り換えた可能性もある。その場合には、宗助の乗った市電は江戸川まで行ったはずだから、宗助もやはり牛込矢来町あたりに住んでいた可能性が高い。宗助のみならず、「それから」の代助も矢来町に住んでいた可能性がきわめて高い。そのように設定したほうが、代助の行動がより合理的に説明がつく。

啓太郎はあまり行動的な方ではないが、ひとつ浅草方面へ遊びに出かける場面がある。その場面で啓太郎は、下谷車坂から浅草へ向かって伸びる大通りを歩いていく。この大通りは今でいう浅草通りのことで、車坂はその起点となったところ、今の上野駅の浅草口のあるあたりである。

浅草通りは、いまでも仏具屋が軒を並べているが、それは明治末でも変わらなかったようで、漱石はそんな通りの様子を次のように書いている。

「彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た」

ここで門跡といっているのは東本願寺のこと、奴鰻の角は、雷門通りが国際通りにぶつかるところである。

浅草を出た啓太郎は浅草橋に向かって歩きながら、占師を探す。蔵前のあたりまで来て占の看板をみつけた啓太郎は、そこへ入って自分の未来を占ってもらう。啓太郎は、占師といえば髭を生やした爺さんとばかり思いこんでいたのだが、その思いに反して小柄な婆さんが現れて占ってくれた。その占いというのが、文銭占といって、九枚の穴のあいた文銭を様々に並べ替えて、その並び具合から人の命運を占うというものだった。そんな占は、現代人はすっかり信用しなくなったが、明治末の日本人はいまだ信じていたわけで、それは啓太郎のような帝国大学を出たインテリでも変わらなかったということらしい。何はともかく、この占いは啓太郎のその後の命運をよく言い当てていたのである。

「雨の降る日」と題する一段では、松本の末娘宵子の死と送葬とが描かれるが、その中で須永を含めた一行が、矢来町の家から上落合の火葬場まで骨上げに行く場面がある。矢来町の家から火葬場のある上落合までは、今でいう早稲田通りで一直線につながっている。どういうわけか漱石は、火葬場は柏木のステーションから二丁ばかりのところにあると書いているが、実際には一キロ(十丁)近くあるはずだ。もっとも須永らの一行は柏木のステーションを利用せずに、矢来町の家から車(人力車)に乗って早稲田通りを走ったわけであるが。その早稲田通り沿いの風景を漱石は次のように書いている。

「火葬場の経験は千代子にとって生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色も忘れ物を思い出したように嬉しかった。眼に入るものは青い麦畑と青い大根畑と常盤木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色だった。前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だの諏訪の森だのを千代子に教えた」


    

  
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