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夏目漱石「門」を読む


夏目漱石は「それから」で、友人の妻を奪う話を書いた。「門」は、友人から妻を奪った男が、世間を憚りながら、妻と一緒にひっそりとした愛を育てる話である。「それから」の代助は、もととも愛していた女を一旦友人にゆずりながら、後でそのことを悔いて、女を奪い返す。女のほうも代助に奪われることを望む。「門」の宗助は、友人の恋人らしい女を奪ったように書かれているが、どのようにして奪ったのか、詳しいことは触れられていない。ただ、女を奪われた友人との間に深刻な事態を生じ、それがもとで宗助はその友人の影におびえながら暮らさなければならない羽目に陥った。しかしそのことが、宗助と妻の、二人の結びつきを一層深める。そんな具合に書かれている。

これと並んで、財産を巡る親族との葛藤が、もうひとつの大きなテーマになっている。親族によって財産を食い物にされたために人間不信に陥るというテーマは、「こころ」でも大きく取り上げられるわけだが、そのテーマがこの小説で始めて出て来た形だ。「こころ」の中では、先生の父親の財産を食いつぶした叔父は、悪意のある人物として描かれているが、この小説では、そういう悪意は感じさせない。財産の処分を任された叔父は、思慮の足りないためにそれを失ったことになっている。決して甥を騙そうと思ったわけではない。この叔父は、甥の一人で宗助の弟にあたる小六を引き取って、十年間も育て上げ、高等学校にも通わせている。その叔父が財産を失ったうえに死んでしまったので、宗助は小六を引き取ったうえ、彼の身の上のことまで背負い込まなければならなくなる。だが、宗助はそれを迷惑なことだと考えながらも、叔父とその家族を深く恨むわけでもない。

こんな調子で、小説の前半は、宗助が小六の身の上に頭を悩ませながら、妻の御米と睦まじく暮らす様子を描いている。彼らは山の手の一角にある小さな借家にひっそりと暮らしている。場所がどこかは、詳しく書かれていない。駿河台下から西方向の市電に乗って終点で下り、そこから歩いて二十分ほどの所にあるというのみである。その終点というのは、どうやら九段下のようだ。宗助の住む借家は、崖地の斜面の下に立っているということになっているから、九段下から歩いて二十分範囲のところで、しかも崖地のあるような起伏に富んだ場所ということになる。「それから」の舞台にもなった小石川界隈かもしれない。

宗助は、丸の内にある役所に勤めているということになっている。丸の内には中央官庁はなかったから、おそらく東京府庁あたりではないかと考えられる。この役所に通うのに、宗助は九段下から市電に乗り、神田須田町で乗り換えて銀座方面に向かい、京橋で下りて府庁に入ったのだと思われる。もっとも小説の中ではそんなことは書かれていない。あくまで筆者の想像だ。

宗助の給料は低額で、その日暮らしがやっとというふうに書かれている。なにしろ穴の開いた靴をいつまでも穿きつづけなければならないほどなのだ。だから、小六のために学資を用意するというのは論外だ。といいつつ、家の中に下女を置いている。御米が華奢な体で家事に耐えないということもあろうが、下女を雇うのはたいした出費ではなかったようだ。当時の下女の相場を調べたところ、三食付で一円ほどの小遣を渡せばよいという情報を見つけた。

宗助はひょんなことから大家の坂井と親しくなる。この男は大学出のインテリで、卒業後は職業につかず、毎日を遊んで暮らしている。先祖代々の財産で食っていけるのだ。沢山の子どもにも恵まれ、世の中に聊かの不満も持たない。その男が何故か、宗助に関心を示し、宗助の方も打ち解けて話すようになる。そのうちにこの男が、宗助にとって大きな意味を持つ存在となる。

一つには、この男を介して、自分が今まであれほど避けてきた友人と鉢合わせをしそうになったことだ。満州にいる坂井の弟が金策のために日本に戻ってきたが、安井という友人を一緒に連れてきた。近いうちに彼らがここにやって来るからあなたも会って見ないかと言われたのだ。その安井という男こそ、宗助が御米を奪った当の友人なのだ。

宗助はこの友人とのことを忘れるために今までとてつもない努力をしてきた。結局それを忘れるために役立ったのは時間の流れだけだった。いままでに費やしたこの時間の流れが、一瞬で逆戻りしかねないことに、宗助は大いに驚き、どうしたらよいか分別を失いそうになる。彼が禅寺にこもって座禅をする気になったのは、友人との不幸な過去が、それによって少しでも忘れることができるかもしれないと思ったからだ。

結局宗助は、この友人と鉢合わせする危機を逃れることができた。それのみならず、坂井から弟の小六を書生に置いて面倒を見ようと申し入れられた。そのことによって宗助は、弟の未来が開けるのを感じることができたばかりか、小六の存在によって乱されていた家内の平安と夫婦の絆を取り戻すこともできるのだ。

こんなわけで、この小説は、節目節目でちょっとした波乱を立てながらも、宗助と御米という一対の夫婦が、仲睦まじく暮らしていく様子をほのぼのと描いている。途中御米が狭心症の発作を起こし、あわやという事態に直面するが、それがまた夫婦の絆を更に深めることになる。そんな御米に宗助は、安井が近くに現れたということを一切語らない。一人でそれによる危機を乗り切っていく。それ故、この小説では、夫婦の深い絆は強調されているが、その絆は男である宗助の視点を介して伝わって来るだけで、女である御米の視点は考慮されていないともいえる。女はあくまでも、男の視線の先にある存在として描かれている。



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