日本語と日本文化


漱石の「こころ」を読む


朝日がこの(2014年の)四月から九月にかけて、漱石の小説「こころ」を連載していたのを読んだ。「こころ」の連載が始まったのはちょうど百年前の四月だった。朝日はそれを連載した新聞社として、百年経った記念に、百年前とそっくり同じ体裁で再連載をしたということだったが、筆者はその連載を一日も欠かさずに読んだ、熱心な読者のひとりだった。

筆者が漱石の小説を読んだのは高校生の頃のことである。それ以来、読み返したことはなかった。そんなわけで、ほぼ半世紀ぶりの読み返しになったわけだが、それにしても再読の印象は強烈だった。まず、筆者はこれを、再読したというよりは、初めて読んだような印象を受けた。つまり、高校生時代に読んだ際の記憶がすっぽりと抜け落ちていたわけだ。筆者は漱石について、ひとかどの理解をしていたつもりだったので、これはショックだった。筆者は「こころ」に何が書かれていたか、正確な知識をまったく持ち合わせないままに、漱石を理解したつもりになっていたということだからだ。

そんなわけで、今後も漱石についていっぱしに語ろうとするなら、漱石を読み直さねばならないという気持ちになった。だからこの度は、「こころ」を初めて読んだというような気持ちで、読んだ感想を書いてみようと思う。「こころ」が終わったあとは、他の作品についても、順次読書と批評とを積み重ねていきたいものだ。

読後感を書くにあたっては、いくつか批評の基準あるいは視点のようなものを用意しておきたいと思う。ひとつは国際人としての視点だ。つまり、日本人ではなく、東アジアの人や欧米の人から見たら、漱石はどのように映るだろうか、という視点からこれを読み解くということである。もう一つは、現代人としての視点だ。これは最初の視点とも深くかかわるが、現代に生きる日本人の目から見たら、漱石はどのように映るだろうか、というような視点である。これは、漱石が時代を超えた普遍性を持つだろうかという問題意識とかかわる。言い換えれば漱石の今日性ということである。そのほか漱石のエクリチュールの特徴とか、小説の構成上の特徴とか、技術的な視点もいくつかあるが、それらは感想を記述していく中で、適宜交えていくこととしたい。

このような問題意識から「こころ」を読み解くと、いくつかの要素がおのずから浮かび上がってくる。まず、殉死の問題だ。この小説のなかの最大のテーマが「殉死」だということは、発表直後から言われてきたことだ。この小説は、明治天皇の死に対する乃木希典の殉死に触発されて書かれたと世間は思い、漱石もまたそれを否定しなかったようだから、そのような受け取り方が流布したのは不思議ではない。乃木の殉死は鴎外もこれを取り上げ、「興津弥五右衛門の遺書」はじめいくつかの短編小説を書いている。当時は乃木の死が引き金になって、殉死を論じることがひとつの社会現象になっていたほどであるから、漱石がこれを小説の中で取り上げたのは、ある意味自然なことだったともいえる。

しかし、現代の日本人あるいは現代の外国人の目からすれば、殉死というのは特異な問題領域の事柄だろう。日本人なら、殉死を特殊日本的なことながらも、一時代においては自然な事柄だったと解釈することができるかもしれないが、他のアジア人や、ましてや欧米文化圏の目から見れば、殉死はまったく異常なことである。とくにキリスト教を信じる人々にとっては、殉死は意味のない自殺行為くらいにしか映らないだろう。その殉死を漱石は正面から取り上げて、しかもそれを批判するのではなく、美化しようとするようなところがある。しかも、特定の人間への殉死と言うだけでなく、明治という過ぎ行く時代への殉死だなどというわかりづらいことまで漱石は書いている。時代に準じて死を選ぶなどという発想は、他の国民には絶対にありえないこととして映るだけだ。

こういうような姿勢は、鴎外と比較しても、理解を得がたい面を持っているといえる。鴎外も殉死を取り上げたが、鴎外は殉死を美化するつもりはまったくといってよいほど持ち合わせなかった。鴎外は殉死を、道徳の問題としてではなく、武士の意地(それもどちらかというとつまらない意地)の問題に属する事柄だと捉えていたのである。尤も鴎外は、意地を、人間を動かす動機の中でも最も強烈なものと捉えてはいたが。

次に目に付く要素は友情をめぐるものだろう。「こころ」の主人公である先生を死に至らしめた直接の動機は乃木将軍の殉死への共感であるが、その伏線として、友人を裏切ったことに対する罪悪感というものがあった。この罪悪感が強く働いて、先生は自分を責めるようになり、それがきっかけで世間からドロップアウトしてしまった。その挙句に、この世に自分のいる場所を確保できなくなり、ついには自殺を考えるようになる。乃木の殉死は、その覚悟を後押ししただけという面もある。そこで、先生とその友人との友情が問題になるわけだが、彼らの友情を引き裂いたのは一人の女性をめぐる葛藤なのであった。先生は友人のKがある女性を深く愛していることを知りながら、そしてそのことでKが自分に相談したり信頼感を持っていることを知りながら、その女性を自分のものにしてしまった。友人のKはそれが原因となって自殺してしまうのだが、そのことが先生に癒しがたい心の傷を残し、この世からドロップアウトする要因になった。

しかし、男というものは、女を他の男に取られたくらいで、果たして自殺できるようなものなのか。大いに疑問のわくところだ。そんな男のことに感心するような人間は、いまの日本にもいないだろう。もっともゲーテのウェルテルは恋の病から自殺したのであったが、その限りでは、失恋から自殺という流れは欧米圏の人々の目には不自然ではないのかもしれないが、少なくとも現代の日本人には、失恋から自殺するような男は、アホとしかいいようがないだろう。

その失恋をもたらした男女の恋愛について、この小説が書いているところは殆どないといってよい。ウェルテルの場合には、ウェルテルの恋愛感情が延々と語られるのだが、この小説では、男が女に言い寄るわけでもなく、また女が男の申し出にイエスと答えるわけでもない。友人のKの場合には、自分の気持ちを相手の女に伝えるでもなく、友達の先生に打ち明けるだけであるし、その先生も相手の女性を直接口説くわけでもない。女性の母親に向かって、娘さんを自分の嫁に欲しいというだけだ。これが果たして恋愛と呼べるだろうか。

こうして見ると、漱石が描いた人間関係というのは、極めてあっさりしたものだとの印象を与える。その割には、語り手である「私」の先生に対する思い入れは異常なほど強いものとして描かれている。それはあたかも、同性愛を思わせるような、精神の密着ぶりといえる。漱石には同性愛の趣味はなかったと思われるが、その漱石にしてこのような同性愛的な人間関係を描き分けたことの不思議さに打たれないではおれない。

同性愛的な関係を除けば、残余の人間関係はきわめてあっさりとしたものだ。家族間の関係でさえ、きわめてあっさりと描かれている。「私」にとっては、父の死に対する配慮よりも、先生の死に対する憂慮のほうが優先している、というように描かれている。その一方で、親類も含めて他人に対する警戒心というものが、何度も繰り返し語られる。人間は常に構えていなければ、簡単にだまされてしまう。だから他人に対しては絶対に気を許してはならない、といったような言葉が何度も語られる。それを読んだ者は人間不信を加速されるのを感ずるだろう。

こんなわけで、「こころ」の描いている世界は、かなり特異な世界だというような印象を持たされる。だからといって、筆者はこれを駄作とは思わない。やはり傑作だと思う。それはこの小説が、結構において堅固であり、エクリチュールに独自な艶があるからだと思う。その辺については、後日別途述べてみたい。


    

  
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