日本語と日本文化

病床六尺:正岡子規の絶筆


明治35年は子規が死んだ年である。その前年「墨汁一滴」の連載をなし終えた子規は、自分の死がいよいよ押し迫ってきたことを痛感し、その気持ちを私的な日記「仰臥漫録」の中でも吐露していたが、幸いにして年を越して生きながらえ、毎年恒例のように訪れてくる厄月の5月も何とか乗り切れそうな気がしていた。そんな子規に新たな連載の機会が与えられた。日本新聞社友小島一雄の計らいだった。

連載は5月5日に始まった。子規はその連載に「病床六尺」と命名し、冒頭に次のような記事を書いた。

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外へ足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅に一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其でも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其さへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて病苦を忘るる様な事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして」

子規はこんな風に書いて、おそらくあまり残されていないだろう自分の命を、何とか燃焼させたいと思ったのだろう。だが連載二日後の七日から様態がおかしくなり、15日には体温が低下してなかなか上がらなかった。子規もついに観念して、死ぬる準備をしたほどであったが、幸いに危篤に陥ることはなかった。

小島はそんな子規の病状を見て、子規を休ませるために連載を一時中断させたが、それを知った子規は次のような手紙を児島に送って、連載を認めてくれるように懇願したのである。

「僕の今日の生命は「病床六尺」にあるのです 毎朝寝起には死ぬる程苦しいのです 其中で新聞をあけて病床六尺を見ると僅に甦るのです 今朝新聞を見た時の苦しさ 病床六尺が無いので泣き出しました どーもたまりません」

驚いた小島は子規のもとに飛んでいき、「実は君がそれ程とは知らなかった。よろしい、死ぬまで書け、毎日載せるから」(小島一雄の子規談)といって慰めた。こうして病床六尺は子規の死の二日前まで、ほとんど休むことなく書きつがれたのである。

8月20日には連載が100回目に達した。子規はこのことを喜んだ。そして次のようなことを書いた。連載記事を新聞社に送る状袋の上書きを自分で書くのが面倒なので、新聞社に頼んで活字で印刷してもらった。それでも病人の身で余り多く頼むのは笑われかねないので、100枚注文した。すると新聞社は300枚送ってくれた。300枚といえば300日分、それを全部使うまでには10月の先までかかる。そこまで生きられるかどうかおぼつかなかったが、とうとう100回分まで使うことが出来た。このようにいって子規は次のように述懐を述べる。

「この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。しかしあとにはまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。」

病床六尺の題材は、墨汁一滴同様かなり広い範囲にわたっている。あえて相違をあげるとすれば、墨汁一滴では和歌の連作が目を引くのに対し、病床六尺では絵画に関する記事が多いことだ。

その絵画を巡って、ほほえましいエピソードが記されている。8月20日の午後子規の弟子孫生と快生が渡辺のお嬢さんを連れて訪ねてきた。このお嬢さんのことは前から知らぬでもなかったが、あってみると「想像して居ったよりは遥に品の善い、其で何となく気の利いて居る、いはば余の理想に近いところの趣」を備えたお嬢さんだった。

「暫くして三人は暇乞して帰りかけたので余は病床に寝てゐながら何となく気がいらって来て、どうとも仕方の無い様になったので、今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私に余の意中を明かしてしまった」

意中とはお嬢さんに一晩泊まっていって欲しいというものであった。文面からは何とも艶めかしい光景が浮かんでくるが、渡辺のお嬢さんとは人間の女性ではなく、渡辺何岳が描いた絵のことなのだ。

子規の様態は墨汁一滴を書いたときよりもいっそう進んでいた。身動きもできなくなった体を、過酷な苦痛が襲う。子規はどうやって毎日を過ごすべきか、煩悶する。6月20日の記事には次のような子規の叫びが記されている。

「絶叫。号泣。益々絶叫する。益々号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。寧ろ真の狂人になってしまへば楽であらうと思ふけれどもそれも出来ぬ。若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入ってやうやう減じ僅に眠気さした時には其日の苦痛が終わるとともにはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。」

子規はこのような苦痛にさいなまれながら病床六尺を書く手を休めることなく、死の直前まで書き続けるのである。


    


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