日本語と日本文化

仰臥漫録:正岡子規最晩年の日記


子規は明治34年の7月2日を以て「墨汁一滴」の連載を終了した後、同年の9月2日から「仰臥漫録」を書き始めた。だがこちらは発表することを意図したものではなく、あくまでも子規の私的な手記であった。それだけにいよいよ死を間近に控えた人間の内面が飾ることなく現れている。

仰臥漫録の記事は書き始めてから10月29日までのほぼ2ヶ月の間は毎日記されているが、その後中断し、翌年の6月以降は麻痺剤服用日記という風になっている。5月5日からは「病床六尺」を連載し始めているので、私的な日記とはいえ、実質的には「墨汁一滴」と「病床六尺」の中間に位置する随筆集として捉えることも可能である。

この日記を読んでまず目につくのは、毎日の食事の献立が事細かに記録されていることだ。たとえば9月8日の記事には次のようにある。

 九月八日 晴 午後三時頃曇 暫くして又晴
 朝 粥三椀 佃煮 梅干 牛乳五勺ココア入り 菓子パン数個
 昼 粥三椀 松魚のさしみ ふじ豆 ツクダニ 梅干 梨一つ
 間食 牛乳五勺ココア入り 菓子パン数個
 夕飯 粥二椀 焼鰯十八尾 鰯の酢のもの キャベツ 梨一

ほとんど毎日がこんな調子である。それにしても子規の食欲は大変なものだ。体力が弱っているとはいえ、胃腸は丈夫だったのだろう。他に楽しみの少ない子規にとっては、食事は最大の楽しみであり、また生きていることの証だった。

ついで絵の記事が目立つ。子規は子供の頃から絵が好きだったというが、自分で描き出したのは明治32年の秋だった。親友の画家中村不折の影響などもあったらしい。そしてこの日記の中にも、不自由な体で描いたらしい絵を書き入れている。

時折書き加えている俳句にも、子規らしいさえを見せているものがある。だがこの日記の中で、もっとも読者の心を打つのは、子規の病苦に耐える姿と迫り来る死を予感するところだろう。

その頃中江兆民が「一年有半」という文章を発表し、その中で余命一年半と宣告されたことのショックを連綿とつづっていることに対して、子規はそれを女々しい理屈だといって批判した。

「兆民居士の「一年有半」といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉に穴一つあき候由、われらは腹、背中、臀ともいはず蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も大概は似より候ことと可申候。しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけわれらに劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が楽み出来分れば可申候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点の理がひそみ居候。焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき。」

子規は、兆民のように死ぬことに理屈をつけるのは馬鹿げており、今与えられている命を生きることが肝心だといいたかったのだろう。そしてこの文に続けて、自分がもし死んだ場合のことについて、遺言のようなものを書いている。

「われらなくなり候とも葬式の広告など無用に候。家も町も狭き故二、三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候。
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候。
 戒名といふもの用ゐ候事無用に候。かつて古人の年表など作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などはなくもがなと存候。
 自然石の石碑はいやな事に候。
 柩の前にて通夜すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。
 柩の前にて空涙は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。」

子規はこれより三年ほど前にも、河東可全にあてて自分の死後彫るべき石碑のサンプルを示しているが、それとこの遺言とをあわせて、友人たちは子規の意思を尊重した葬儀を行った。

なお子規は、この年の自分の誕生日に限って岡野から料理をとりよせ、母と妹と三人でこれを食った。家族の平生の看護の努力に報いたいと思ったのである。そして「けだしまた余の誕生日の祝ひおさめなるべし」と日記にしたためたのであった。


    


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