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子規と和歌:歌よみに与ふる書



子規は若い頃から和歌にも親しんでいた。「筆まかせ」のなかの一節で、「余が和歌を始めしは明治十八年井出真棹先生の許を尋ねし時より始まり」と書いているが、実際に作り始めたのは明治15年の頃であり、歌集「竹の里歌」もその年の歌を冒頭に置いている。

その後も和歌作りは着実に続けたが、明治25年を境にあまり作らなくなった。俳句の刷新運動にのめりこんだからである。ところが明治30年の末頃から再び和歌を作り始め、こんどは本業の俳句を上回るほどの情熱を和歌のほうにかけるようになった。そのきっかけとなった面白い出来事がある。

その年の10月なかば、京都に住む年長の友人天田愚庵が使者にことづけて子規に柿を送ってきた。柿好きの子規は喜んで

  つりがねの蔕のところが渋かりき
  御仏の供へあまりの柿十五

などと俳句をひねったが、すぐには返事の礼状を出さなかった。愚庵は子規から一向に音信がないので、

  正岡はまさきくてあるか柿の実のあまきともいはずしぶきともいはず

と詠んだ和歌を添えて、見舞いの葉書を送った。この和歌を詠んだ子規はすっかり恐縮して、侘びの手紙を出し、その中に六首の和歌を添えた。

  みほとけにそなへし柿のあまりつらん我にそたへし十あまりいつつ
  柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬふきそうまき
  籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん
  世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柿くひて猿にかも似る
  おろかちふ庵のあるしかあれにたひし柿のうまさをわすれえなくに
  あまりうまさに文書くことこそわすれつる心あるごとな思ひ吾師

この年の子規は、脊椎カリエスの症状が一段と悪化し、二度にわたる手術の甲斐もなく、いよいよ寝たきりの状態に陥るようになった。だから普通の人間では、創作の余裕など沸かないところだが、子規はたまたま作ったこの6首の歌がきっかけになって、若い頃から親しんできた和歌を、もう一度本格的にやろうと思ったのである。

そして翌明治31年の2月下旬から3月始めにかけ10回にわたって、「歌よみに与ふる書」を「日本」紙上に発表し、俳句に続いて和歌の革新運動に乗り出す。なにしろ死を意識しだした人間の行いであるから、それには気迫がこもっていた。

「歌よみに与ふる書」は、当世の和歌を否定する次のような激越な言葉で始まっている。

「仰せの如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば「万葉」以来実朝以来一向に振ひ不申候。」

ここで子規が総論的に述べているのは、実朝以来和歌がすっかり退廃してしまったということである。子規はこの文章に続いて実朝礼拝を繰り広げる。そして実朝以前の和歌としては、万葉集をすぐれたものとなす。これに比べれば、「貫之は下手な歌よみにて「古今集」はくだらぬ集にて有之候」と喝破する。

子規のこの評価以来、明治以降万葉振りが和歌の規範として重んじられるようになり、それに反比例して古今和歌集は軽視されるようになる。子規以前には和歌といえば古今集が最大の規範であったから、これは革命的な転換といえるものだった。

なぜ和歌がかくもくだらぬものに成り果てたか、その原因を子規は、歌よみの視野の狭さと、その結果としての陳腐さに帰する。古今集の歌よみなどは、狭い了見で小手先の技を弄するばかり、すこしも颯爽としたところがない、というわけである。

また和歌の腐敗は趣向の変化しないことが原因であり、趣向の変化しないのは用語の少ないのが原因であるとして、従来の慣習的な用語にとらわれず、漢語でも欧米語でも、何でも取り入れるのがよいといっている、要するに伝統にとらわれない態度が重要なのだといいたいようだ。

しかし趣向を広げるといっても、そこにはおのずから境界のようなものがある。「如何に区域を広くするとも非文学的思想は容れ申さず、非文学的思想とは理屈のことに有之候」といっているように、理屈を歌の中に盛り込むのはよくない。歌に盛り込むべきはあくまでも、美の意を運ぶに足るものであり、それがつまり文学的な価値である。

逆に言えば文学的な価値さえ伴っておれば、形式や用語にとらわれる必要はないという立場だった。

こうした子規の説は世間の大きな反響を呼んだ。それらはほとんど批判的なものではあったが、子規はそうした批判を意に介することなく、死ぬまでの数年間、独自の歌の世界を展開していくのである。



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