日本語と日本文化

正岡子規の修行時代


正岡子規は明治16年の5月に松山中学を退学し、翌6月に東京に向かった。時に15歳の少年に、何がこんなことをさせたのか。

子規に限らず、当時の松山中学の生徒の間では、上京熱が高まっていたといわれる。新しい時代を迎え、すべてが東京中心に流れていると思われる状況の中で、少年たちは故郷とはいえ辺鄙な地で閉塞することを嫌い、中央で立身出世することを夢見ていたらしい。子規もまたその例にもれなかった。彼は政治家にならんと志し、その夢を実現するために、学業を放擲してまで東京に吸い寄せられたのだろう。

子規の上京を応援してくれたのは、母方の叔父加藤拓川だった。拓川は子規が松山中学を全うすることを望み、俄かな上京には反対だったが、ついに子規の情熱に負け、許したのだった。

子規は6月10日に船で三津浜港をたち、14日に東京の土を踏んだ。とりあえず旧藩主久松家のやっかいになり、そこの書生小屋や下宿を転々としながら、須田学者や共立学校といった進学予備校で受験準備をした。そのためには経済的な基盤が必要だったが、幸い明治十七年三月に、久松家の育英事業常磐会給費生に選ばれ、月額7円の生活費のほか、いくばくかの書籍代を支給されることとなった。

子規は翌明治17年9月に大学予備門(後の第一高等中学校)に入学する。その頃の子規は、政治家になろうとする意欲がようやく薄れて来た。東京に出てきて世の中の様子が少しずつわかってくるにつけ、政治を牛耳っているのは薩長の連中で、自分たちのようなかつて朝敵扱いされた藩の出身者には、チャンスがないと思ったからだろう。

一校時代の子規は、下宿にしけこんで友人たちと雑談をしたり、為永春水の人情本を読みふけったりの毎日で、勉学のほうには余り熱心ではなかったようだ。そのなかで注目すべきなのは、明治18年ころからぼちぼち俳句を作り出したということである。

明治21年の7月に一校の予科を卒業した子規は、9月には本科へと進級した。併せて一校の寮を出て久松家の常磐会寄宿舎に入った。漱石と知り合うようになるのは、この頃のことである。

明治22年は、子規にとって運命の分かれ目の年になった。この年5月、子規は大量の喀血をしたのである。それは結核の症状が進んでいることを意味していた。当時結核は不死の病と恐れられており、子規の周囲にも結核で死んでいった人が多くいた。だから子規は、この先末永くないと思われる己の運命を自覚したに違いない。

この喀血の中で、子規はホトトギスの句を詠んだ。

  卯の花をめがけてきたか時鳥
  卯の花の散るまで鳴くか子規

このほか四五十もホトトギスの句を作り、初めて子規と号した。卯の花とは卯年生まれの子規自身のことで、ホトトギスとは「啼いて血を吐くホトトギス」といわれたように、肺病の代名詞であった。

子規の喀血を知った漱石は、早速子規を見舞った。そして家に戻った後に、子規宛に手紙をしたため、その末尾に次のような句を添えた。

  帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
  聞かふとて誰も待たぬに時鳥

子規と漱石が生涯に渉ってやりとりした往復書簡の、これが最初のものであった。

肺病の症状に小康を得た子規は、明治23年9月、帝国大学文化大学哲学科に入学した。子規はそれ以前からハルトマンをはじめドイツ哲学に関心を持っていたようで、その頃には政治家ではなく哲学者たらんと思っていたのである。だが哲学への関心はすぐに薄れ、翌明治24年1月には国文科に転入した。子規の中にあった文学への希求がようやく形を取り出したのである。

だが子規は最初から俳句に身を捧げようとは思っていなかったらしい。俳句への関心は18歳のころからあったようで、喀血に当ってはホトトギスの句なども作っているが、本格的に取り組むようになるのは明治24年以降のことである。それ以前には、ようやく形を整えつつあった近代風の小説に情熱を感じたらしく、いくつかの小説を自ら書いている。

すでに明治20年に「龍門」という小説を書いているが、これは習作の域を出ないものだった。明治23年には「銀世界」という小説を書いているし、明治25年には幸田露伴の「風流仏」に強い影響を受けて「月の都」を書いている。

だが明治24年に俳句分類という作業に取り掛かって以来、子規の俳句へののめりこみがはっきりとしてきた。こうして子規は次第に、俳句を作ることが面白くて、学校の授業などつまらなくなってしまった。

明治24年の年末試験には、漱石の援助などもあり追試験を受けてやっと及第するといった有様だったが、翌25年の年末試験には落第してしまった。子規はそれを契機にして大学を辞めることとする。

その時の子規にはさまざまな思いがあったろう。まず俳句に開眼したことだ。子規には、大学に残って卒業後世間並みの立身出世をすることより、好きな俳句で生きていこうという気持ちが強く働いたのだろう。それに、肺病にかかった自分の身はそう長くは生きられないかも知れぬ。そう思うと余計に好きな道を歩んでみたい。

こうして子規は二十台半ばを前に、己の人生に方向を見つけ、その実現に向かって残された人生を生きていこうと決心したに違いないのだ。

今日我々が知ることとなる、正岡子規という文学者の、自立のときだったといえよう。


    


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