日本語と日本文化

正岡子規の少年時代:子規と松山


正岡子規は慶応三年に伊予松山に生まれた。父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。

そんなところから子規は母親の手で育てられた。母親の八重は松山藩の儒者大原観山の長女で、その係累には学問好きの人々が多かった。子規はこうした人たちに囲まれながら、祖父観山の薫陶を受けて、幼少期からすぐれた才能を育んでいったと思われる。

子規は観山から漢詩の素読を学んだ。その時身に着けた教養は、生涯子規の血肉となった。子規は後に俳句や和歌の刷新者として頭角を現すが、それらの作品に流れている骨太の自然表現は、漢語の論理的できびきびとした表現に通じるものがある。

大原観山が子規7歳のときに死んだ後は、観山の遺言によって、土屋久明が子規に漢詩を教えた。久明は観山の後輩であるが、謹厳実直な性格であったらしく、家禄奉還金を使い切ると、自分の役割は終ったといって餓死したというほどの人物である。子規は10歳のときに始めて漢詩を作り、久明に添削を受けている。

こうした人びとによる私的な教育のほかに、子規は明治6年に末広学校という寺子屋式の小学校に入り、翌年には勝山学校という本格的な小学校に転じた。勝山学校は旧松山藩の士族の子弟が集まっていたところである。子規は周りの子どもたちの雰囲気から、おのずと武家意識を強められたようである。

しかしその当時の武家が、かつての武門とはおよそ違ったものになりつつあることを、幼い子規も感じずにはいられなかったはずだ。子規が生まれて以来、徳川幕藩体制は崩壊の一途をたどり、それにつれて武家の特権は急速に失われていった。父親が死んだ明治5年には断髪令が敷かれ、明治8年には松山藩において家禄奉還が実施され、明治9年には帯刀禁止令が出されている。こうした流れを前に、子規は子供心に、自分の家を含め、故郷の武家が没落する運命を感じないではいなかっただろう。

また松山藩に特有の事情もあった。松山藩は西南の藩にしては珍しく、最後まで佐幕の立場を崩さなかったので、新政権からはとかく目の敵にされた。藩に代わって地元の統治を担当するようになった県の役人たちは、薩長出身者が要職を占め、松山藩出身者は冷飯食いの立場に甘んじていた。

また松山藩は他藩に先んじて旧藩士の家禄を奉還させたが、その内容は藩士の家計にとって過酷なものだったようだ。だから土屋久明のように、すぐにそれを使い果たして餓死するような人間も現れたのだった。

子規は明治十六年、15歳のときに故郷松山を去って東京に向かうことになる。そこには閉塞した故郷の状況に飽き足らず、新天地に向かって羽ばたきたいとの思いがあったはずだ。そんな思いをもたらしたのは、自分の境遇の周りで目覚しく展開している次代の流れだった。

こうした事情は別にして、少年時代の子規はどんな子供だったのだろうか。これについては子規自身が後に、「墨汁一滴」のなかで次のように回想している。

「僕は子供のときから弱味噌の泣味噌と呼ばれて、小学校へ往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれていると、右のほうに並んで居た友達がからかひ半分に僕を押して来る、左へ避けようとすると、左からも他の友が押してくる、僕はもうたまらなくなる、そこで其際足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ機会を得て直ちに泣き出すのである。そんな機会はなくとも二三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいじめる奴があった。」

自分でいうとおり、子規は弱虫で周りの連中からよくいじめられていたようだ。

漱石は後年の子規について、何ごとにつけ自分が一番でないと気がすまない御山の大将だといっているが、それに比べると大きな違いだ。やはり女ばかりの家族の中で育った影響が、そんな形で現れていたのかもしれない。

そんな少年時代の子規の周りには、才気活発な仲間がたくさんいた。先ず母方の従兄弟として、藤野古白や三並良がおり、親友の中には、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公秋山真之などがいた。

子規の故郷松山は古くから俳句の盛んな土地柄だった。子規は俳句を通じて色々な人と出合った。河東碧梧桐、高浜虚子、寒川鼠骨などは子規より年は下であるが、みな子ども時代からの顔なじみである。

子規は15歳で松山を出てからも、折に触れて帰っている。母親と妹が引き続き松山に住んでいたという事情のほか、漱石が一時期松山中学校に赴任していたという事情も手伝ったろう。だが上述したとおり、松山は俳句が盛んな土地柄で、子規はその指導者として慕われていた。それゆえ松山との縁は生涯切れなかったのである。

そんな子規が故郷の松山を詠んだ句がある。

  春や昔十五万石の城下かな

明治18年日清戦争への従軍の徒次松山に立寄った際の作である。子規の故郷への思いが伝わってくる一句である。

この句は今でも、松山駅前の句碑の中に彫りこまれて、松山市民に親しまれているそうだ。


    


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