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柳北仙史熱海文藪


成島柳北は晩年温泉を愛した。主な目的は気晴らしだったようだが、身体の休養あるいは持病の治療も兼ねていたようだ。彼がとくに好んだのは熱海の温泉であり、また箱根の湯であった。寒い時期には熱海に行き、夏には箱根に暑を避けるというのが彼の理想であったようだ。「熱海文藪」は、そうした柳北の温泉三昧の記録である。

「熱海文藪」に収められたのは、明治十一年秋の箱根・熱海旅行を記した「澡泉紀遊」以下明治十七年(柳北の死んだ年)一月の温泉紀行「薬槽余滴」まで七編である。これらは、柳北自身が言っているように、自分のための備忘録であるとともに、温泉の紹介を兼ねて柳北の運営する新聞・雑誌に連載された。柳北が頻繁に温泉を訪ねたのは、無論個人的な得失にも事情があるが、新聞・雑誌の購読者の期待に応えるという意味合いもあったようである。

ここでは、一巻の冒頭を飾る「澡泉紀遊」を紹介したい。この紀行文は、明治十一年九月に、柳北が知友鈴木掬翠とともに箱根・熱海の両温泉に遊んだ記録である。

柳北は旅行の動機から書き起こす。それによれば、箱根の山霊が夢に柳北の前に現われ、しきりに柳北を誘ったというのである。そこで柳北は同行者を求めて友人の鈴木掬翠(文中鐸子として出てくる)に声をかけた。掬翠は、熱海なら同行するが箱根ではいやだと言う。そこで柳北は、箱根を経由して熱海に行こうと提案して掬翠の同意を得る。こうして九月二日から同十二日に至る小旅行が始まるわけである。

明治十一年には、新橋から金川(横浜)までは汽車が通じている。二人は汽車で横浜まで行き、そこからは人力車を飛ばして、その日のうちに箱根湯元に到着する。大変な強行軍である。この強行軍の途中、柳北は酒を飲みながら景色を楽しむことを忘れない。次のような絶句一遍を作って、その景色を愛でている。
  水作箪紋山作屏 満身爽気酒将醒 這般奇景誰能写 雲影風声一様青

二日に湯元に一泊した後、三日は塔ノ沢、四日と五日は宮ノ下に泊る。五日には、宮ノ下の奈良屋を足場にして、底倉、木賀、堂ヶ島などの温泉に浴している。柳北の目的の一端が、温泉療法にあったことを物語っていると思われる。堂ヶ島の温泉は今と同じように崖下の渓流沿いにある。「浴楼ノ経営皆粗悪来リ遊ブ可シ宿ス可カラズ」と柳北がいっているような事情は、いまもやはり変らぬようである。

宮ノ下の温泉は繁華なるにかかわらず、芸者がいないので愉快に遊ぶことも出来ぬといって柳北は屈託する。そこで旅館の主人との間で次のようなやりとりをする。「余云フ此ノ小繁華場何ゾ一個ノ歌妓在ラザルヤ文志云フ県庁ニ請願シ税金ヲ納メザレバ許サズ故ニ其煩ヲ憚テ茲ニ来タル者無シト嗚呼遊浴ノ客山水妙絶ノ地ニシテ一曲ノ嬌歌ヲ聴カント欲スルモ得ベカラズ其ノ無聊遠ク香山ノ潯陽ニ過グル者ハ亦憾ム可キニ非ズヤ」。もっとも芸妓を呼んで歌舞をすることがむつかしくなかったとしても、その時の柳北の懐中を以てしては、果たして存分に堪能することができたかどうか、おぼつかないものがあったと思う。

六日に二人は箱根を発って熱海に向かう。彼らがとった経路は、東海道沿いに芦の湯まで行き、そこから十国峠を経て熱海に向かうというものだった。この経路沿いの景色の雄大さが柳北の心を捉える。柳北はその感動を次のような絶句であらわす。
  乍上万仞山 乍下千尋谷 一径僅通人 崖石大於屋
これは箱根の山を歌ったあの小学唱歌と非常に良く似た表現である。

熱海の手前に日金山東光寺というのがある。そこで柳北は一人の婦人と出会う。話をすればどうやら寺の僧侶の細君のようである。ところが本人は、自分の住んでいる家が寺であり、自分の亭主が僧侶だということがわかっていない。亭主はただの猟師だと思っている。そこで柳北は「一大驚ヲ喫シ、又一語ヲ出ダス能ハズ・・・此地人間ト相隔タル遠シ素ヨリ城市ノ人情ヲ以テ測ル可カラザルモノ有リ」と解釈するのであるが、蓋しこれは廃仏毀釈運動の嵐で経営の基盤を失っていた当時の寺の窮状を伝える挿話なのではないか、と筆者などは忖度するのである。

柳北らは熱海の今井氏に投宿し、そこで数日を気楽に過ごす。面白いのは、柳北が温泉よりも周囲の風景や新鮮な魚の味のほうに関心を寄せていることである。
  水美而山秀 魚鮮又酒醇 縦無澡泉興 可以楽吾人
熱海には芸妓が多くいると見え、柳北は女衒から遊びを勧められる。しかしどういうわけか柳北は、その誘いを断っている。遊び好きの柳北らしからぬ振舞いである。

十一日に柳北は足を延ばして石橋山に行く。頼朝が始めて挙兵して敗れたところである。ここで柳北は絶句一篇と和歌一首を作って歴史に思いを馳せる。
  征人揮涙吊源公 百世覇図今已空 創業誰想当日苦 満山草木只秋風
  苔むせる石橋山にゆきくれて袂つゆけき月を見るかな

十一日に小田原に泊った柳北は、翌十二日に金川に向かう途中で、馬入川が氾濫して渡れないというので、鴫立沢に遊んだ。西行の歌で有名なところだ。そこでも柳北は一首の和歌を読んで自分を慰めた。
  年ふりし鴫たつ沢に来て見ればあはれ昔の秋風ぞふく

結局柳北は十二日のうちに東京へ戻ることができた。柳北はこの小旅行が気に入ったようで、以後機会を見つけては熱海方面へ小旅行を繰り返すことになるわけである。この紀行文にはほとんど言及がないが、柳北が熱海や箱根に滞在するたびに、政治家や文士などが柳北との交誼を求めて集まってきては、詩や杯の応酬を繰り返すさまが展開されることとなる。柳北は徳川時代に花開いた文人文化を体現する最後の人だったと言えるのである。


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