日本語と日本文化


成島柳北「航薇日記」


成島柳北は、明治二年十月中旬から十一月下旬にかけて四十日ほど関西方面に遊んだ。徳川幕府の要職にあって、明治維新の激動を潜り抜けてきた柳北は、徳川慶喜が維新勢力に降参して恭順の意思を示すや、自分の政治的な生命の終わったことを痛感して、一切の公職を辞し、謹慎に近い状態にあった。自分自身を無用の人と称して、世の中に対して斜に構えて暮らしていた。墨堤に構えていた別荘を妻永井氏の姻族戸川成斎にゆずり、浅草の森田町に仮寓して、気楽な生活を装い、世の中の動きを注視していた。そんな折に戸川成斎から、関西に遊ぼうと誘われたのである。成斎は、備中妹尾の実家に用があって赴くので、柳北にも誘いをかけたのであった。かねて関西方面に遊んでみたいと思っていた柳北は、この誘いを渡しに舟とばかり、一緒に行くことにした。「航薇日記」一巻は、その折の日々の記録である。

柳北らの計画は、アメリカの汽船に同乗して神戸の港に至り、そこから浪花を経て妹尾に行き、そこでしばらく遊んだ後、瀬戸内海を舟で浪花に帰る途中に、小豆島に上陸して風光明媚な景色を堪能しようというものだった。

神戸行きの汽船は横浜から出た。浅草に住んでいた柳北は、横浜まで赴かねばならない。しかし横着な柳北は自分の足で歩くことをなるべく避けようとする。肩輿といって、人足の肩に乗って行くのである。この後関西についた後でも、柳北は、ことあるごとに肩輿を雇っている。

汽船は十月十七日の午後に横浜を出帆し、翌々日の午前中には神戸に到着する。だいたい一日半である。この当時は、徒歩や籠で関西まで行くのに二週間以上かかるのが普通だったから、これは実に驚くべき速さなのであるが、柳北は別に感心した様子を見せない。

神戸に着くとそのまま難波、つまり大阪に行って寛いだ。柳北のことだから、旅先でやることと言えば、詩を作ることのほかは、女を抱くことだ。さっそく芸妓を呼んで一緒に騒いだ後、一夜の契りを楽しんだ。その折に作った歌が面白い。
  名にし負ふ難波の浦に栖む鶴の毛の一つだに無きぞかなしき
これは大田道灌の山吹の歌をもじったものだが、「毛の一つだに無き」というのは、この芸妓がまだ子供だったことを物語っている。

難波から備中妹尾までは小船でいったようだ。途中須磨の浦や高砂、明石、姫路などの景勝地を眺めながら、まる二日かけている。途中の風景の美しさを柳北は、「浪花よりここまで四十八里其間奇境勝地指屈するに暇なしまことに筆墨の及ぶ所に非ず」と書いている。

妹尾では大歓待を受けた。戸川成斎の父親貫好の室永井氏は、柳北の亡妻永井氏の姉なので、彼らはいわば義理の兄弟なのである。健啖家の柳北は、ここでうまいものに舌を楽しませた。なかでも「ままかり」という小魚が気に入ったようで、次のように書いている。「鰯に似て小なり其名を借飯と云ふ冠堂いふ此魚年始めて漁船に上がる魚人食ふに味美なり闔船の飯を喫し尽し遂に隣船より飯を借りて食ふ其の味の美なるに因てなり故に名づけしと」。

妹尾におちついて数日たった頃、柳北は江戸に残してきた家族のことが気になりだした。とくに子供たちのことが気になる。そこで詩を作ってわずかに自分を慰めた。
  阿爺萍跡又天涯 想汝朝々憶阿爺 上国江山無限好 不如與汝在家
柳北は自分を阿爺、つまり爺さんと言っているが、このときはまだ33歳だったのである。

柳北の屈託を慰める為に、友人たちが讃岐の金比羅への遠足を計画してくれた。船で丸亀へわたり、そこから歩いて金比羅宮に詣で、無論芸妓を抱いた。ここで柳北は、芸妓と遊ぶ費用について記している。曰く、「この金陵(近頃かく称す)の芸子一夜身値三十五匁にして線香一條の間は値銭三百なり其うち少年にて色なしと称するものは別に二方金許の費用ありと」。

徳川時代末期の標準的な貨幣価値の換算比は、金一両に対して銀六十匁、銭四千文である。金一両を今日の価値で四万円と仮定すると、一夜で約二万三千円、一時で約三千円ということになる。芸妓が少年つまりまだ子供の場合には、別途料金がかかるという仕組だ。この夜柳北は十五歳の芸妓を抱いた。十五歳と言っても数え年だから、実質は十四歳だ。いずれにしても、今日の中学生に相当する少女を抱いたということだ。この芸妓は小倉といった。その小倉に柳北は餞別の歌を贈っている。
  契り置て今ひとたびは来て見なん小倉の山の紅葉ならねと
歌の内容からすると、この少女は初床だったようである。柳北の好色ぶりも、子供を相手ではいただけないというべきか。どうも柳北には、若い頃から少女趣味があったらしい。

十一月十二日、滞在二週間あまりにして柳北らは妹尾を去る。そして船で浪花に向かう途中小豆島に上陸して、神懸という山に上る。ここから見る風景が日本第一の絶景だと聞いていたからである。義姉の永井氏らも同道して、この機会に絶景を楽しもうということになった。果たしてそれは期待に違わざるすばらしさであった。柳北は次のような詩を作ってそのすばらしさを称えた
  絶勝始疑天有私 丹青難写況分詞 半生憐我煙霞痼 未識渓山若個奇
その上で、「文士もし一遊を為さば必ず余がいふ所に千倍したる絶勝なるを知るべし」と念を押している。

なお柳北は、小豆島に上陸したときに柳橋という橋を渡った。江戸の柳橋は若き日の柳北が遊び、以て柳橋新誌をあらわしたところである。柳北は俄然その日々を思い出し、次のような五言絶句を作った。
  綺楼情夢断 千里故山遥 孤島無相識 追雲渡柳橋
浪花についた柳北は、早速芸妓たちを呼んでドンちゃん騒ぎをした。その折にも一遍の詩を作って備忘のよすがとするを忘れなかった。
  俄然相遭忽相親 一曲弦歌一枕春 濃艶借来脂粉色 不知世有虢夫人
その夜、柳北は二人の芸妓を布団に引き入れ、枕の両側にはべらせてもつれあい楽しんだのであった。

翌日も大いに遊んだ。「人々うかれ立て歌舞時を移し初更過る比舟に乗り玉鶴と北枝を携へて肥前屋に帰りぬ」といった具合だ。芸妓は昨夜とは違う女たちである。
  郷里雲山隔 客身独自憐 情痴未消尽 夜々抱花眠

こうしてみると、柳北は、旅の途上にあるときは常に芸妓を呼んで浮かれ騒ぎ、その夜は彼女たちと枕を共にしていたことが知られるのである。芸妓の枕代はけっこう侮れない金額だったから、柳北は浪人の身として懐が豊かだったのだろうと推測される。

かくして柳北は四十日あまりを経て江戸浅草の寓居に戻ってきた。そうして旅の日々を回想しながら、書きとどめおきたる記録をもとに航薇日記一巻を完成した。以下はそのあとがきの一部である。

「それ予は一個の避世人なり然るにこの羇旅に於てある時は毫を揮ひ紙を展て文人墨客となりあるときは銖を算し両を秤つて商估と化し或時は錦筵に座し肥馬に跨りて貴公子の侶となりある時は雲を踏み石を枕にして行脚僧の如くある時は花を抱き柳に眠りて遊冶少年を学びつる日毎の変幻自らも驚く計りなり是れこの記の書かざるを得ざる所にして徒に値貴き洛陽の紙を費やすこととはなりぬ云々」




  
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