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永井荷風の成島柳北論


永井荷風の小文に「柳北仙史の柳橋新誌につきて」と題する一篇がある。成島柳北「柳橋新誌」成立前後の事情を紹介した文章である。特に初篇に焦点を当てて、それが柳北自身の遊興体験からもたらされたものであることを解明している。

荷風は柳北に心酔し、柳橋新誌の如きは若年の頃から愛読していた。柳北の文章にみなぎる反骨精神が己の気質に似ていると感じたとともに、漢文調のきびきびした文体に、文章の規範を求めたのだろう。

大正の頃になって、荷風はたまたま柳北の子孫大嶋氏と面会し、その所蔵するところの柳北の日記「硯北日乗」を拝借する機会があった。一読してすっかり魅力にとらわれた荷風は、ついに全文を手写したほどであった。そして日記の中から「柳橋新誌」成立に関与する部分を取り出して、この小文を書いたのである。

荷風は、「柳橋新誌」が成立する安政六年の二年ほど前から柳北が柳橋に足繁く通い、幾人かの芸妓と交情を重ねた経緯に注目している。彼女らとの遊びが、後に柳橋新誌執筆にとってのかけがえのない材料を提供したと考えたのだ。

安政四年の頃、柳北は神田和泉橋の北側、御徒町の付近に住んでいた。柳橋とは目と鼻の先である。そこに柳北は友人や親戚とともに遊び、また芸妓と交情を重ねるようになる。当時の柳北は将軍の読書御相手を勤める身分で、前途洋洋たる青年であった。

荷風によれば、柳北は安政四年の正月に友人たちと隅田川に遊び、橋場の料亭に飲んだのを皮切りに、頻繁に遊びを楽しむようになるが、その遊びに柳橋の芸妓月券というものを同伴させていることにまず注目している。荷風はその本名を知ることができないのは残念だといっているが、おそらく阿勝といったのだろう。勝の字を分解すると、月と券になるからだ。柳橋新誌にはおびただしい数の芸妓の名がでてくるが、この場合のようにひねった名が多い。

この年の暮、柳北は狩野氏の妻を離別して、新たに永井氏の女を継室とするが、遊興癖のほうは収まることなく、翌安政五年には前年以上に足繁く柳橋に通うようになる。12月には組八という名の芸妓と一夜を共にした記事が見える。

「二日癸卯、陰、直営、有申楽、商賈賜観、晩訪襟島、遂如鼎浦、与組八逢、有酔来偶折未開梅句、」

この日は家茂将軍宣下のあった日である。城内では祝いの能楽が上演され、商人もそれを拝見した。下城した柳北はその晩柳橋を訪れ、組八とあった。その組八について、「酔ひ来って偶たま折る未だ開かざるの梅」といっているから、組八は初めて男に肌を許したのだろう。このとき柳北は23歳、組八のほうはおそらく十六七の娘であったと思われる。

この年柳北はたびたび園遊するが、組八はそのたびに伴われている。柳北は先ほどもいったように前途洋洋たる青年であったし、容貌も人並みだったから、普段は客に特別扱いすることのない柳橋の芸妓も、柳北を特別に遇したのだろう。

しかし翌安政6年の夏の頃にはどうしたわけか組八との関係は疎遠になる。それに変わって今度は「喬氏」の名が現れるようになる。荷風によれば「喬氏」には姉と妹があって、柳北は姉のほうを愛したということらしい。

柳北が柳橋新誌を草するのはこの年の秋である。以上のような柳北の遊びと芸妓との交情が、それについて大きな材料を提供したと、荷風は推測する。

万延元年5月、喬氏の妹が名広めを行った。柳北は彼女たちの後見役を気取り、友人を招いてともに隅田川に遊び、今戸の料理屋で祝宴を張った。その時の様子を柳北の日記は次のように記している。

「己亥、この日小喬名を挙ぐ、余興て力あり、故に賀宴を開く、興味筆にすべからず、諸氏と別れて喬氏を過ぎ、贈酬差あり、又酌む、興高く意熟す、嗚呼佳盟三年今日始めてその約を踏む、喜び知るべきなり」

どうやら柳北は喬氏姉妹のうち、妹のほうとは付き合い始めて3年後にやっと結ばれたようである。

こうした若き日の柳北の遊興について、荷風は次のように評している。

「柳橋新誌は今日の文芸鑑賞の眼を以てすれば柳北が風俗の叙述に託して青春の歓楽を唄ったものと見て差し支へはない。然りとすれば幕府滅びて明治維新の後に至って執筆せられた其の続編の如きは是正に柳北が時勢に対する失意と悲哀とを述べた感慨の文字といふべきである。」

柳北同様遊郭に遊ぶことを以て己の文芸の糧と為した荷風散人らしい見立てである。


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