日本語と日本文化

成島柳北の投獄記:ごく内ばなし


成島柳北は筆禍がもとで讒謗律違反に問われ、明治9年の2月から6月までの四ヶ月間鍛冶橋監獄に収監された。この監獄は前年の12月にできたばかりで、西洋風の作りであった。そこでの四ヶ月間の監獄生活を、柳北は出獄間もない6月14日から24日にかけて、朝野新聞紙上で紹介した。「ごく内ばなし」がそれである。ごく内緒の話という意味だろうか。植木枝盛の「出獄追記」と並んで、明治初年の監獄の様子が伺われる貴重な証言である。

「天下不詳ノ地、陛圄ニ若クモノ無ク、天下不楽ノ人、獄囚ニ過グルモノ無シ。
是レ婦女児童モ能ク知レル所ナリ。然リト雖ども、獄内ノ情況ハ決シテ人間界ニ在テ忖度シ得ルモノニ非ズ。僕今卿等ニ語ル所ノモノハ、豪モ賢人君子ノ気取リヲ以テ所謂負ケ惜ミ痩我慢ノ説ヲ吐クニ非ズ。又、故サラニ善イ子ト為ラント欲シテ、所謂弁茶羅ヲ言ツテ官人ニ媚ブルニ非ズ。 又、例ノ扼腕切歯ノ流行ニ倣ツテ無益ナル癇癪ヲ起シテ悪口スルニ非ズ。唯是レ一味ノ真率着実ニ説キ出シ来ラントス。」

これは一篇の冒頭部分である。柳北は監獄での生活を、癇癪や負け惜しみからではなく、関係者はもとより、一般国民のためにも、あるいはこれから監獄の厄介になるであろう人々のためにも 、その真実を述べて監獄のあり方を考えてもらいたい思いで紹介したいというのである。

柳北によればこの監獄は、「略ボ西洋ノ牢獄ニ模倣スルモノニシテ、其形チ十字ナリ。楼上楼下、其区ヲ八ツニ分ツ。一句十房々、数合セテ八十。楼上楼下トモ監守ノ吏、中央ニ在テ四方ヲ視察ス。」というものであった。明治政府は文明開化の一環として、監獄にも西洋流を取り入れたのである。だが形に魂が伴っていなかったことは、後に述べるとおりである。

この監獄がどうも、新聞記者たちを放り込むために作られたらしいことは、囚人たちのほとんどが讒謗律と新聞紙条例違反で検挙された記者たちからなっていたことに伺われる。柳北が放り込まれた房には、「猿人政府説」を咎められて投獄された植木枝盛もいた。

監獄での生活は、我々が想像するほど悲惨なものではなかったようだ。「始ハ否、終リハ泰前ニ凶後ニ吉ナルモノナリ。」と総評しているように、前半はひどかったと言っているが、後半はそうでもなかったらしい。

投獄された当初は徳川時代以来の獄卒のような連中が看守を勤めていたようだ。袴に草履といったいでたちで、無教養な男ばかりだったという。それが途中から警視庁の役人に交代し、やや近代的なシステムが導入されたらしいのである。

入獄当初は自由が利かず、読書ができないのはもとより、挙動の隅々にまで看守の叱責を浴びる有様だった。

「一日壁ニ向テ独語ス。獄吏忽チ叱シテ曰ク、汝何ゾ隣房ト語ルト。 一日閂ニ倚テ呻吟ス。又忽チ叱シテ曰ク、汝何ゾ前房ト話スルト。衣ヲ振ツテ虱ヲ捫スレバ乃チ曰ク、汝何ゾ正坐セザルト。起テ壁間ノ塵ヲ掃ヘバ乃チ曰ク、汝何ゾ猥リニ歩行スルト。甚シキニ至テハ、一夜同房ノ人、腹痛ヲ患フ(医官ノ急診察ヲ乞フ程ニモ非ズ)僕其ノ苦悩ヲ問ヒ、其人是ニ答フルノ際、俄ニ房外声有テ云フ、汝何ゾ点灯後ニ私語スルト。僕弁解モ面倒ナレバ、恐入候ノ三字ヲ以テ答フルノミ。」

こんな有様では、息が詰まるに違いない。しかしそのうち看守たちが役人に変わると、行動の自由に幅が出て、読書もできるようになった。傑作なのは、書物には私物の差し入れを認めず、監獄出入りの本屋から買うように強要されたということだ。柳北は囚人たちが本屋の経済を支えていると皮肉っている。

監獄生活の中で困ったことは色々あるが、中でも一番の悩みの種は蚊と虱だった。柳北は、徳川時代の牢屋でも蚊帳を吊ることは許されていたのだから、是非認めて欲しいと申し出るが、当局は、この監獄は西洋風の近代的なものだから、そんなものは必要ないと、頑として認めない。あきれ返った柳北は、次のような鬱憤をもらすのである。

「僕恐クハ、法律学者中、一種屎ト味噌トヲ混合スルノ議ヲ発シテ、西洋ノ獄ニハ蚊帳ヲ設クルノ例無シト謂フ者有ランヲ。抑モ西洋各国ノ都府ハ汚穢ナル溝涜無ク、園庭街衢ニ塵埃ヲ積ム所ロ無ク、城市ニ樹木鮮シ。何レノ処ヨリ殷々タル蚊雷ヲ起シ来ラン。其人蚊帳有リト雖ども、亦我ガ日本帝国ニ於テ之ヲ必用物トスルガ如キニ非ズ。豈彼邦獄裏ノ囚人ニして其ノ有無ヲ問フ可ケンヤ。
是レ東西趣ヲ異ニセザルヲ得ザル所ナリ。且、事々其ノ趣キヲ異ニスルハ、独リ千万里外ノ西洋各国ヲ論ゼズ、我ガ帝国内ニ於テ考フルニモ、同ジ禁獄人ニして或ハ獄ニ在リ、或ハ家ニアリ。家ニ在ル者ハ蚊?ニ安眠シ、獄ニ在ル者ハ蚊雷ニ震摂ス。是レ亦其趣ヲ一ニスルト謂フ可キカ。故ニ僕杞憂ヲ抱イテ、予メ一言以テ法律学者中ノ屎的先生ヲ挫折スルノミ。 」

大小便も自由にはできなかった。大小便をすることを監獄では「ツメ」といった。それは腹の中に詰まったものを、決められた時間に出す事を意味していた。囚人たちは、三人づつ一束に縛られ、看守に見守られながら便所で用を足すのである。

辛いことの反面楽しいことにも言及している。その中で柳北が最もこだわっているのは、散発のことである。

「剪髪ノ第二日、獄吏僕ノ名ヲ第一ニ呼ベリ。出テ運動場ニ赴ク。桃花盛ンニ開ケリ。花ニ背シテ小椅ヲ設ク。剪髪工来タツテ後ロニ立ツ。工人ノ品等ハ一頭一銖五銭ノ間ニ位セリ。那時獄丁来タツテ忽マチ鉄梏ヲ僕ノ両手ニ鎖ザセリ。
僕思フ、傍ニ剪刀ノ類アリ、不測ノ事ヲ防グ為メナラント。既ニ剪髪シ了リ、房ニ帰ツテ漸次ニ同房ノ人ニ問フ。皆云フ、我々一人モ鉄梏ヲ鎖サレズ。 其形スラ見ザリシト。 僕大ニ怪ミ各房ノ景況ヲ窺フニ、一人モ其ノ妙味ヲ喫シタル者無キガ如シ。僕疑団益堅ク、慨然トシテ嘆ジテ曰ク、同ク是レ禁獄人ニシテ其罪マタ僕ヨリ重キ者アリ。何ノ故ニ僕一人ニ梏スルヤ。 且、僕ノ罪ヲ獲ルハ常ニ口舌ニ在リ。其口ヲ篏(くびかせ)シ、其舌ヲ抜クハ敢テ辞セズト雖ども、僕ガ手ニ於テハマタ何ノ罪有テ之ヲ鎖シタルヤト。忽チ隣房ニ声有テ曰ク、足下ノ筆ハ足下ノ手ノ役スルトコロナラズヤト。僕負ケズニ答ヘテ曰ク、筆ハ右手ノ使フトコロ、左手ハ何ノ罪カ有ル。又大声有ツテ曰ク、左手ハ従ヲ以テ論ズ。禁獄四ヶ月罰金百円。 僕マタ一語ノ抵抗ス可キコト無カリシ。」

これは散発の場面にことよせて、自らの筆禍事件を皮肉たっぷりに振り返ったのだろう。

柳北は日本の監獄での体験を、かつてフランスで見聞した西洋の監獄と比較しながらこの文を書いたに違いない。フランスの監獄は、原則として一人に一つの房があてがわれ、囚人たちにはある程度の自由が認められていた。また内部の環境も清潔で、蚊に悩まされるということなどなかった。これに比較して日本の監獄は、形こそ西洋を真似しているが、中身は野蛮なままだ、こういいたかったに違いないのだ。

しかし、フランスに比べ遅れていたとはいえ、耐え難いほどの困難が満ちていたということはなかったようだ。少なくとも、アブ・グライブやグアンタナモの監獄よりは、人間的だったといえそうだ。


    


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