日本語と日本文化

成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け


成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。その遊びの中から「京猫一斑」(鴨東新誌)が生まれている。そして翌明治7年9月に「朝野新聞」の局長に迎えられ、新聞人としての生活を始める。

朝野新聞は日本の新聞の草分けのひとつであり、明治8年から9年頃にかけては他の新聞をしのぎ、もっとも影響力のある新聞だった。成島柳北はそれをリードして、政府による新聞弾圧に果敢に立ち向かったことで知られる。

日本の近代ジャーナリズムは、新聞による政府批判とそれへの激しい弾圧の歴史として始まった。

最初の波は明治維新前後で、新聞を主導したのは旧幕臣たちであった。彼らは薩長を中心とする新政府に対抗して、論陣を張った。それに対し新政府は太政官布告を出して、新聞の弾圧に乗り出した。

柳北が朝野新聞に入った明治7年頃は、明治政府内での路線対立が明確になり、それに乗じて新聞の論調も過激になっていた頃だった。新聞の力を思い知らされた明治政府は、明治8年6月に讒謗率と新聞紙条例を制定して、新聞弾圧の強化を図る。柳北が朝野新聞を舞台に繰り広げた活動は、この弾圧との戦いだったのである。

朝野新聞は明治5年に創刊された「公文通誌」という新聞を化粧直ししたものだった。公文通誌は政府の布告をルビつきで紹介することが中心で、購読者数も少ない三流新聞だった。柳北は朝野新聞に入ると、紙面を大幅に刷新し、政論新聞としての色彩を明確にした。同時に「雑録」蘭を設けて、柳北得意の文芸を展開した。これはほかの新聞にはなかったものだ。

柳北の論調は始から過激だったわけではなかった。だが政府による新聞人への弾圧が露骨になるに従い、政府批判を強めるようになる。とりわけ末広鉄腸が新聞紙条例によって自宅禁固刑に処せられ、福地桜痴が召還される事態が生じるや、柳北は得意の諧謔を交えて、この弾圧を批判した。

柳北自身、明治8年8月に自宅禁固5日の刑を受けた。8月9日付けの論説の一節に、政府批判を教唆する表現が含まれているという理由からだった。その一節とは次のようなものである。

「我輩は、議論正義を以て人を扇動し、世を裨益するもの陸続輩出するの兆を見れば、国家と人民との為に賀せざるを得ず。又法吏の之を糾弾する有るに因て其国家人民の為に職を尽くし怠らざるを見れば、是れ亦国家人民との為に賀せざるべからず。何となれば彼も義務之も義務、両ながら義務を尽せる者と我輩は思想すればなり。」

有名な「辟易賦」は8月17日に掲載されているが、これも政府要人を激昂させるに値するものだった。

この一件は柳北の反政府熱をいっそう掻き立てたようである。柳北はもともと淡白な性格で、ものごとに拘泥することを嫌うたちであったが、この一件がきっかけになって、執拗な政府批判を繰り広げるのである。

そんな柳北にとって、屈辱的な投獄につながったのが、讒謗律に対する攻撃である。柳北は讒謗律の制定者である井上毅と尾崎三郎を揶揄する文を、明治8年12月20日の朝野新聞に掲載するが、揶揄された当の二人が、名誉毀損で柳北を告発し、柳北は禁獄四ヶ月、罰金100円を申し付けられるのである。その文とは次のようなものであった。

「我輩の年少なるに当たって、好んで同社の士人と天下の法律を論じ、天下の制度を議す。当時両個の士人あり。一を井上三郎と云ひ、一を尾崎毅と云ふ。共に才学あって而して頗る狡猾の術に長ぜり。能く当路君子の意旨を迎合し、以て唯利をこれ視る。我輩が法律制度の利害得失を論駁すること有る毎に、彼の二人は必ず我輩を目して誹毀とし、讒謗とし、勉めて我輩の口舌を箝し、我輩の志を抑圧せんとせり。・・・然るに彼の二人は今や既に死して其醜名を一杯の土下に留めたるのみ。嗚呼、亦憐れむ可べきかな。若し彼の二人をして猶生存して今日開明の形勢を見せしめば、即ち驚愕して羞死せんか。将た猶其の狡猾の術を墨守し、巧に其の説を粉飾して当路の人を惑はし、我輩を困迫せしめんとするか。未だ其如何を判ずる能はざるなり。」

柳北は審問判事に対して、井上三郎と尾崎毅が実在する人物であり、告発者とは何らの関係もないなどと言い張って、こんにゃく問答を繰り広げたが、官憲の圧力には抗し切れなかった。その時の自分の気持ちを、後に「ごく内ばなし」の中で次のように書いている。

「僕二月一日ノ夜、奇怪ノ霊夢ヲ見ル。其夢ミル所ハ何ゾ。夢ニ日本武尊赤兎馬ニ跨リ、北氷海喜望峯ノ絶頂ニ出現シ、僕ニ教ヘテ曰ク。汝前世大江山ニ棲ム獅子ノ角ヲ以テ矛ヲ造リ、琵琶湖ニ浮ミシ水母ノ目玉ヲ突キ潰シタル報イヲ以テ、今度獄中ニ繋ガレ、数月間読書ノ苦ミヲ受ク可シ。汝今如何ホド弁解スルトモ、何ノ役ニモ立タズ。徒ラニ長ク拘留ノ責ヲ受ケ、竟ニ上等裁判大審院迄ニモ引キ出サレテ、到底活路無カラン。若シ是レヲ虚言ト思ハヾ、試ニニウトン氏ガ三世相ヲ見ヨヤ。ト言フカト思ヘバ驚キ覚メタリ。此ノ霊夢ノ僕ガ心肝ニ銘スルト、鎌田君ノ説諭ノ厚キヲ以テ再ビ弁解ヲ為サズシテ其罪ニ服シタリキ。」

柳北生来の淡白な気質がよく出て入る場面である。

四ヶ月の刑期を終えて出獄した柳北は一躍明治言論界の英雄になった。彼の名声を慕ってさまざまな人々が朝野新聞に投稿し、読者も飛躍的に増えて、発行部数は新聞界のトップに躍り出た。

新聞各社は柳北ら言論人に対する政府の弾圧に抗議する意図を持って、明治9年6月28日に、浅草観音堂において、「新聞供養大施餓鬼」を催した。讒謗律と新聞紙条例施行一周年のこの日、これらの法令によって新聞が死んだことを記念しようとする、ユーモラスな催しだった。

当日本堂の正面には1尺角の大卒塔婆が林立し、僧侶らの読経の後、新聞人たちが各々祭文を朗読した。その中で柳北の朗読がひときわ耳に響いたのはいうまでもない。

明治9年の9月に朝野新聞は銀座尾張町の四つ角に進出した。現在和光があるところだ。そのときの建物の原寸大の模型が両国の江戸東京博物館に展示されているから、見た人も多いことだろう。

だが朝野新聞は、この頃をピークに次第に勢いを失っていく。柳北自身が新聞に情熱を感じなくなったのが影響したらしい。柳北は新たに雑誌「花月新誌」を発刊し、そちらの方に勢力を注ぐようになった。若い頃からの文芸に対する嗜好性が、この雑誌を舞台に花開くことになるのだが、ジャーナリストとしての柳北は次第に影を薄くしていくのである。


    


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