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大塩平八郎:大逆事件と森鴎外の体制批判意識


森鴎外が大正二年の十二月に書き上げた歴史小説の第五作目「大塩平八郎」は、それまでの歴史小説とはいささか趣を異にしている。

「興津弥五右衛門の遺書」から「護持院原の敵討」に至る四作は、いづれも歴史上の出来事を取り上げ、依拠した資料をして自ら語らしめながら、そこに生きた人間たちの、生の人間性といったものを淡々と描き出そうとする態度に貫かれていた。鴎外が彼らに垣間見たのは、武士としての意地であり、人間として当然の義務を果たそうとする、無私の衝動であった。鴎外はそこに、人間の人間としての、時代を超えた普遍的な感情を見ようとした。

これらの作品で取り上げられた人物たちは歴史上に実在した人たちだったとはいえ、殆ど無名であって、彼らの行状を記した資料もいわば穴だらけといってよいものだった。鴎外はその穴を必要な範囲で最小限につくろいながら、主人公たちの表情を浮き上がらせようとつとめていた。

これに対して、大塩平八郎は歴史上有名な人物であった。彼の起こした行動については、さまざまな見方があったが、畢竟マイナスのイメージで彩られていた。幕藩体制から鴎外の生きた天皇制の時代を通じて否定的な評価が定着していたのである。

大塩平八郎は幕藩体制にとっては、体制の転覆を図ったけしからぬ男であった。、また天皇制の時代になっても、暴動を以て権威に立ち向かった無謀な男であり、天保時代に世を襲った飢饉など悲惨な時代背景を割り引いても、同情できるところは全くないと断罪されてきた。

鴎外はそんな大塩平八郎という男を改めてとりあげ、彼の起こした暴動の一部始終を描きながら、それが持った歴史的な意味合いを考え直そうとした。あわせて大塩平八郎の人物像や暴動にかかわった人々の行動を詳細にあぶりだそうとした。

鴎外がこの小説を書くにあたっては、典拠とすべき優れた業績が存在していた。同時代の歴史家幸田成友が明治43年に出版した「大塩平八郎」という本である。幸田は大阪市史を編纂する過程で、大阪の歴史に大きな足跡を刻んだこの人物に同情を抱くようになり、世間に流布している誤伝謬説を打破して、平八郎に対して相応しい評価を与えようと試みたのであった。

この本は大塩平八郎という人物について、生い立ちより始めて与力としての功績、学者としての思想を述べ、天保の飢饉下で大塩が如何に世を憂え、どのような動機にもとづいて反乱を惹起せしめたかを、克明に追及した。そこには幕府によってかぶせられた逆賊・不倫の汚名から大塩平八郎の名誉を回復せしめようとの意図が働いていた。

鴎外はこの幸田の本を下敷きに使って、「大塩平八郎」を描いた。だが幸田とは異なり、鴎外は平八郎に肩入れするような言辞は一切用いていない。また平八郎についての余分な側面は一切省略して、暴動当日のわずか一日間の動きに焦点を合せている。それも、くだくだしい説明は除き、平八郎を中心にした人物たちの行動を淡々と描いているのみである。

鴎外研究家の尾形仂は、幸田の本と鴎外の小説とを読み比べて、面白い論を展開している。尾形は小泉浩一郎の「大塩平八郎論」を引き合いに出して、鴎外がこの小説に垣間見せている見解として三つのものをあげている。

一つは町奉行たちの行動や心理を描くことを通じて、官僚たちの無能や俗物性を強調していること。二つ目は、「己が陰謀を推し進めたのではなくて、陰謀が己を拉っし去ったのだ」という平八郎の言葉を引用して、平八郎の陰謀に対する受動性を強調していること。三つ目は、累を及ぼしたものへの平八郎の謝罪や、逃亡の道筋で見せる生への執着を強調していること。以上の三点である。

とくに二つ目の陰謀に対する受動性という点に関しては、鴎外は弟子の宇津木に師匠を批判する言葉をはかせ、その行動が幕府や天皇に対して向けられた計画的な反乱ではなく、先をみないその場限りの暴挙に終っていると言わせている。

尾形はこの部分を解釈して、鴎外が平八郎に対してなした「国家秩序の変革への展望を欠落させた一揆的暴動への批判」と見ている。鴎外が平八郎をこのように批判する背景には、同時代に対する厳しい批判意識が重なっていたのだと、尾形は考える。幸徳秋水らがかかわったいわゆる大逆事件に対して、鴎外が示した反応に、その批判意識が表れているとみているのである。

明治43年におきた「大逆事件」は、無政府主義者による天皇制転覆の企てとして、体制を震撼させる事件に発展した。政府は過剰とも言える反応を見せ、その年の五月に最初の検挙者を出して以来、違例のスピード捜査と非公開の裁判を以て、翌年の1月には24人の死刑を始めとして、関係した26人全員に判決が下された。

鴎外は被告側弁護人平出弁護士の手を通じて、その裁判の内実を読むことができる立場にいた。鴎外はそれを読むことを通じて、幸徳秋水らの思想的な未熟さや、ましてそれが計画的な革命をなすには程遠いものだったことなどを知り、幸徳秋水らに対する官憲側の異常なまでの過剰反応の一切を知ることができたのだろう。

当時の鴎外は、大逆事件については神経質になっていた節がある。日記の中でそのことについては殆ど触れていないばかりか、むしろ空白の日が目立っている。恐らく自身係わりのあったこの事件について、慎重にならざるを得なかったのだろう。

だが大正も二年目を迎えて、世間の記憶が風化し始めたのを見計らったのか、鴎外はこの事件を何らかの形で取り上げたいと思うようになった。だが正面から取り上げるには危険が大きすぎる。そこで鴎外は、似たような事件の先例として大塩の乱に目をつけ、それに託しながら大逆事件の意味を考え直そうとしたのではないか。これが、尾形の推論のあらましである。

大塩平八郎の乱と大逆事件には似ているところが非常に多い。まずその無計画性である。平八郎自身「陰謀が己を拉っし去った」といっているように、平八郎の乱は、義憤に駆られるまま、自然の流れに乗って暴発したものだった。それを大きな騒ぎに燃え上がらせたのは、町奉行をはじめ幕府側の事大主義的な対応である。

同じように大逆事件も、綿密な計画に支えられたものではなかった。幸徳秋水自ら、「これは一種の正当防衛です」といっているように、一方では世の中の不条理に義憤を感ずるまま、その義憤のはけ口をもとめて暴発したという側面があるとともに、官憲側の異常な反応が彼らを妄動へと追いやった側面もある。

権力側の対応にも似通ったものがある。大塩の乱に際しては、町奉行方は終止無能振りを発揮してなすすべもなかったが、やがて巨大な力を集中してちっぽけな反乱者集団を包囲していく。権力の事大主義である。大逆事件においても、官憲側は相手の能力からすると異常とも思える力の行使に頼ることによって、相手を粉砕しようとした。しかもその過程では、裏切りや密告をそそのかして、相手側を内部から崩壊させようと躍起にもなった。

大塩の時代の場合には、この寝返りの行為は返忠という言葉で美化されていた。正しくあるべき幕府方に忠義をつくすのだから、それは否定的な意味での裏切り行為ではなく、大儀に対する忠誠というわけである。大逆事件の際にも、密告や裏切りが生じたが、鴎外はこうした行為に対して、衷心から怒りを覚えた。

鴎外はこの二つの不幸な暴挙を、「未だ覚醒せざる社会主義」と呼んだ。鴎外の気持では、そうした暴動を引き起こさせたのは、権力による人民に対する誅求であり、これを葬り去ったのも権力による弾圧であった。鴎外はその権力の中に、余りにも人間性に反するものを見たが故に、それに対して批判的にならざるを得なかった。

鴎外はもとより官僚として人生を送り、権力機構そのものの、しかも中枢近くにいた男である。その男が何故、かくも権力に対して批判意識を持つのか。森鴎外という一個の人間を理解するための鍵が、この問いには潜んでいる。


    


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