日本語と日本文化


護持院原の敵討:鴎外、忠君愛国思想を斬る


森鴎外は「意地」に収められた三篇の作品の後、「護持院原の敵討」という短編小説を書いた。先の三篇が殉死あるいはそれに象徴される封建時代における武士の体面とか意地をテーマにしていたのに対し、これは敵討というものをテーマに取り上げることによって、封建道徳の内実と、それに呪縛され翻弄される者の運命を描いたものである。

「興津弥五右衛門の遺書」を書くきっかけになったのが、乃木希典の殉死だったように、この作品にも鴎外を執筆に駆り立てた動機があった。

尾形仂によれば、鴎外がこの作品を書いた大正のはじめ頃は、日露戦争勝利をきっかけにして忠君愛国の機運が非常に高まっていた時代であった。そして忠臣の鑑としての赤穂義士の物語が大いにもてはやされ、浪曲師の語る忠臣蔵の物語は人びとの感激を誘っていた。滝沢馬琴の小説「南総里見八犬伝」もそうした流れの中で再評価され、単に勧善懲悪にとどまらず、敬神を体現した道徳的な読み物だといわれるまでになった。

鴎外はこのような風潮を苦々しく思っていたらしい。鴎外は「馬琴日誌抄」の後書に寄せて次のように書いている。

「僕はこの頃の馬琴熱を見て、却って馬琴の為に気の毒なことだと思ふ。なぜといふに、若しこの熱が持続していくと、馬琴は又三度葬られなくてはならないかも知れないからである。」

鴎外は馬琴をもっぱら忠君愛国教育のために利用しようとしていた当時の世調に苦言を呈し、馬琴に対して同情しているのである。

鴎外はだから、「護持院原の敵討」の物語を、敵討を評価する視点から書いたのではない。さりとてそれを封建的な蛮挙であるともみていない。この事件が起きた天保時代は、箍が緩んできていたとはいえ、封建道徳が人びとの体面はもとより、内面までをも律していた時代であった。そんな時代にあって、血族を殺された人間には、敵を討つという行為が、当然のこととして課されていたし、また当人にもそれを自然のこととして遂行せねばならない倫理的な理由があった。

鴎外はそうした人々の内面に立ち入ることによって、人は何故辛い思いに耐えて敵を探し出し、それを打たねばならぬ理由があるのか、その心理の必然性を追おうとした。そしてそこに人間として、時代を超えた普遍的な感情の存在することに思い当たった。

忠義とか恩愛とか当代の道徳家たちが吹聴するようなものは薄っぺらなものに過ぎない。敵を打たんとする者は、己に課された義務を己に内面化し、それを遂行することによって、人間としての己に言い訳ができる。それは忠君愛国といったような外面的な動機にもとづくのではなくて、人間としてありたいという内面的な衝動にもとづく行為なのだ。

鴎外はこのような思いを込めて、この小説を書いたのだろうと忖度されるのである。

鴎外は「史実をして語らしめる」という彼一流の方法意識を以て、この作品も、ある覧本を下敷きにして書いている。「山本復讐記」と題するその本は、幕府の下級役人が聞き書きとしてまとめたある復讐事件の物語であるが、鴎外はそれをもとに忠実に事件を再現し、敵討の意味について考えている。

この敵討は、姫路城主酒井家の江戸上屋敷において起きた殺人事件に関連して、殺された山本三右衛門の遺族が行なったものである。遺族たちは公儀に敵討を願い出て許されると、嫡子宇平、その姉りよを敵討の当事者とし、叔父山本九郎右衛門を助太刀とし、下手人亀蔵の顔見知り文吉をお供に敵討の旅に出る。ただし、りよは女であることから同行を差し止められ、敵が見つかったときに加わるということに定められた。

一行の三人は上州を皮切りに日本中を探し回るが、敵の亀像の行方は杳として知れない。何せ広い日本を、大した手がかりもなしに探すのであるから、それは広大な砂浜に一粒の砂を探すに等しい。翌年春には大阪で路銀がつき、また一行は次々に病に倒れる。ここで嫡子の宇平はついに一行から離脱してしまう。

離脱に当たって宇平が漏らす言葉を、鴎外は淡々と記している。宇平は自分たちのなそうとしている行為について、それが果たして己の全存在を賭するに値するものなのか、人は何を支えにしてこの過酷な試練に耐えねばならぬのか、そのことについて、疑問を呈する。

宇平はいう、「をじさん、あなたはいつ敵に会へると思ってゐますか、、、わたしは変な気持ちがしてなりません」これは敵討の成功に対する疑問である。「をじさん、あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思ってゐますか」これは神仏の加護に対する疑問である。「亀蔵はにくい奴ですから、若し出会ったら、ひどい目に会はせてやります。だが探すのも待つのも駄目ですから、出会ふまではあいつのことなんか考へずにゐます。わたしは晴れがましい敵討をしようとは思ひませんから、助太刀もいりません」これは敵討制度そのものに対する疑問である。

宇平がいうように、敵討は成功の見込みに乏しい反面、己の存在をかけてなさねばならぬ過酷な義務だ。そんなことに生涯を捧げるのはつまらない、宇平はそういうのだが、それに対して作者鴎外はなんら容喙する所がない。

だが宇平の言い分とは裏腹に、稲荷様が機縁になって亀蔵のありかが判明し、ここに一同は晴れて、護持院原において敵討に成功する。護持院原は今の神田錦町一帯に当たるところで、享保の火災で焼けるまで、護国寺の前身たる護持院のあった場所だ。移転後は火除地として残され、広大な敷地を要していたために、度々敵討の舞台ともなった。

この敵討には、りよも加わり、華々しく行なわれたために、女の敵討として江戸市中の評判にもなった。そんなところから鴎外の資料のもとになった「山本復讐記」のようなものが作られるに至ったのだろう。

「山本復讐記」にはこの敵討を賛美するような記述もあり、またそのほかにも、当時の瓦版や落書もこれを取り上げ、大いにもてはやしたという。だが鴎外は、この敵討について、それを賛美する言葉は一言も書き加えていない。むしろ空しい目的に向かって黙々といそしむ人びとの、苦難にみちた毎日を、淡々と描いている。

鴎外がこの作品を書いた時代は、先述したように、忠臣蔵がもてはやされ、敵討が美徳と受け取られていた時代である。それに対して鴎外は、批判的ともいえる姿勢をとった。鴎外が主人公たちについて評価するのは、敵討というものの美徳についてなのではなかった。大事なのは、仇討それ自体ではなく、それにかける人々のひたむきな生き方そのものだった。鴎外はそこに献身の美をみたのだろう。

献身とはある意味で、封建的な道徳かもしれない。しかしそれは、ただ単に特殊時代的な特殊な道徳にとどまるものではあるまい、こうとらえるのが鴎外の立場だったようだ。彼は後に、山椒大夫において、この献身というものをテーマにして、もう一度その意味を考えるようになる。

この小説の結末を鴎外は次のように書いている。

―この敵討のあった時、屋代太郎賢は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。「又もあらじ魂祭るてふ折にあひて父兄の仇討ちしたぐひは。」幸いに大田七左衛門が死んで十二年程立っていたので、もうパロディを作って八代をからかふものもなかった。」

大田七左衛門とは大田南畝つまり蜀山人のことである。彼なら、敵討を何の反省もなく賛美するような輩は、きっとパロディの種にしてしまうだろうというのである。


    


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