日本語と日本文化


興津弥五右衛門の遺書:森鴎外、乃木希典の殉死を弁蔬す


森鴎外の晩年を飾る一連の歴史小説のさきがけともなった「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の明治天皇への殉死を直接のきっかけとして書かれたものである。この殉死については、鴎外は日記の中で次のように記している。

大正元年九月十三日、晴、轜車に扈随して宮城より青山に至る、午後八時宮城を発し、十一時青山に至る、翌日午後二時青山を出でて帰る、途上乃木希典夫妻の死を説くものあり、予半信半疑す
十五日、雨、午後乃木の納棺式に臨む
十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す

鴎外は明治天皇の棺を載せた車に従って青山の斎場に行き、深夜家に帰る途上、乃木希典殉死の噂を聞いて半信半疑になった。しかしそのうわさが真実であったことがわかり、愕然としたのだった。乃木の納棺式に臨んだ上、十八日には告別式に参列し、そしてその告別式の催された当の日に、「興津弥五右衛門の遺書」を中央公論史上に寄せているのである。

鴎外が五日という短い間に、乃木の殉死をテーマにした文を草したのは、どういう事情によってなのか、さまざまな臆説がなされている。単に中央公論社から感想を求められたのに対して応えたのだという、割り切った見方もある。

だが鴎外には、乃木希典の殉死が、当時の日本人に忘れかけられていた、ある尊い感情を思い起こさせたのではなかったか。当時の一般の論調は、乃木に同情するものもあったが、否定的な見方をするものが、大新聞をはじめ多かった。中には、乃木は発狂したのだとか、別の事情があって自殺したのだといった解釈まで横行した。鴎外はそうした論調を眼にするたびに、忘れられつつある古来の美徳が、改めて足蹴にされるのを見るようで、腹立たしくなったのではないか。

この作品は、熊本藩で起きた古い殉死事件について、本人の遺書という形をとって、その経緯や意味するところを、鴎外なりに再構成したものであるが、それは鴎外が乃木にかわって、殉死の真理を弁蔬したものといえるのである。。

今日鴎外の全集類に載っているものは、殆どが後になって手を加えた再稿版であるが、初版の文は、この弁蔬という色彩が非常に強いものであった。

この文は、まず死後の名聞のために遺書をしたためておくのだという言葉から始まり、主君忠興の13回忌に当たって忠孝を尽くすために死ぬのであること、その忠孝は生前に忠興から賜った恩義からすれば当然の義なのであり、自分はこれまで延引して果たせなかった主君への殉死をこうして晴れやかになすのだと、宣言することで終っている。

興津弥五右衛門自身の弁蔬という形をとった文であるから、そこには鴎外自身の意見はあからさまには出ていないが、この文が鴎外の乃木の殉死に対する弁蔬となっていることは明らかである。つまり乃木は世間で言われているように、自分の事情によって死んだのではなく、明治天皇への忠孝のあかしとして殉死したのであると、鴎外はいっているのである。

鴎外はこのように、乃木の殉死を美化することによって、封建道徳の水準に己を立たせたのだろうか。

鴎外はこの文を、京都町奉行所与力神沢貞観の著「翁草」によって書いた。翁草は忠興と弥五右衛門との主従関係について触れた後に、弥五右衛門が忠興の三回忌にあたって、船岡山の西麓で潔く殉死したということを簡単に書いているに過ぎない。鴎外はこれを遺書の形に書き換えるに際し、弥五右衛門の忠孝とその結果としての殉死の必然性を強調したのであった。

だが何故殉死が弥五右衛門にとって必然となり、それが人倫に照らして賞賛すべきものとなるのか、その辺の事情については、遺書という形式の制約上必ずしも明らかにはなっていない。鴎外はただ、この文を通じて、乃木の殉死の持つ意味を、世間に投げかけてみたといえるのかもしれない。

この作品を書いたことで鴎外は殉死というものについて、改めて考察を加え、その結果を「阿部一族」という作品に投入した。阿部一族については稿を改めて述べたいが、鴎外はそこで、殉死にはただに忠孝という側面のみではなく、打算的な部分もあるのだということに気づいた。そこから殉死をめぐって複雑な議論を展開するようにもなる。

鴎外は、阿部一族を書き上げた後で、「興津弥五右衛門の遺書」をほぼ全面的に書き換えた。初版をいろどっていた弁蔬の色彩はやや後退し、殉死に向きあう弥五右衛門の思いを、淡々と述べさせている。鴎外自身の言葉をそこに介在させ、物語に脚色を加えることもしていない。弥五右衛門の子孫たちのその後について、簡単に触れているのみである。

こうした執筆の経緯をたどってみると、殉死という問題について、鴎外がいかに複雑な感情をもっていたか、伺われよう。

ともあれ、この作品が、殉死という古い封建的な行為に改めて光を当てたことは間違いない。しかし、鴎外がそこでとまっていたとしたら、大した文学的な意味は持ち得なかっただろう。鴎外は殉死を突き詰めて考えていくうち、そこに単なる義理や忠孝を超えた、もっと大事な人間の感情が介在しているのではないかと考えるようになった。

「阿部一族」以降に現れる一連の歴史小説は、こうした人間の普遍的感情とは何か、それに答えていくための、営為であったともいえる。

(参考)尾形仂「鴎外晩年の歴史小説」


    


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