日本語と日本文化


大田南畝と寛政の改革


天明六年(1786)に田沼意次が失脚すると、田沼の同類として賄賂政治を行っていたとみなされた連中も失脚した。その中には勘定奉行松本伊豆守やその配下の土山宗次郎なども含まれていた。この動きは松平定信が老中に就任する天明七年六月以降加速し、田沼派は全面的に粛清される。

こうした変化は、従来田沼と何らかのつながりを持っていた連中を震え上がらせた。大田南畝もそんな一人だった。

土山宗次郎は南畝のパトロンとして、ともに豪遊した仲だったが、その男が巨額の公金横領を理由に死罪にされた。また田沼の命を受けて蝦夷地探索に出かけていた平秩東作も、江戸に戻ったところを捕らえられて、重い譴責処分を受け、それがもとで死んだ。東作は南畝の古くからの仲間だ。

南畝は、やがて粛清の手が自分にも及ぶのではないかと、戦々恐々だったろう。しかしどうしたわけか、上役からは土山や平秩との関係をちらりと聞かれただけで、特段の咎めは及んでこなかった。胸をなでおろした南畝はこれを潮時に狂歌から身を引く事にした。こんなことを続けていては、いつ何時自分を危険にさらすかもしれないと、南畝一流の打算が働いたのだろう。こうして天明七年七月頃、南畝は狂歌と絶縁宣言をするのである。

天明から寛政に年号が変わると(1789)、定信の改革が本格化する。世にいう「寛政の改革」である。

寛政の改革の評価については、歴史学者たちにゆだねるとして、ここでは語らない。ただ定信が実施した施策のうち、大田南畝に特にかかわりの深い部分について、多少の言を述べる。

ひとつは、南畝ら下級武士の生活に直接的な影響を及ぼした棄捐令についてだ。これは武士が札差から借りていた借金を帳消しにするというもので、中世によくおこなわれた徳政令と同じような趣旨のものだ。

これによって武士は長年にわたる借金地獄から一時的に開放されることとなった。しかし膨大な債権を帳消しにされた札差は面白いわけがない。以後武士に対する金融を拒否する動きに出た。札差から金が借りられないでは、武士の日常の生活は成り立っていかない。こうした事態が生じた。

一時的には楽になるかもしれないが、長い目で見れば、かえって自分の首をしめることにもなる。定信の改革には、棄捐令に限らず、現状の深い認識と将来への展望に欠けていたものが多かったのである。

二つ目は、「寛政異学の禁」に象徴される、定信の学問・文芸に対する弾圧である。定信は「超」の字がつく保守主義者であった。新しいものは何もかもきらいだった。そんな定信の基本姿勢は、禁欲と質実剛健である。禁欲は経済政策としての倹約の奨励につながり、質実剛健は朱子学への回帰と新しい学問・文芸への弾圧となってあらわれた。

恋川春町ら武士出身の戯作者がつぎつぎと筆を折り、山東京伝は浮ついた戯作を、命令を無視して出したと言うので手鎖五十日の刑に処せられ、京伝の著作を出版した蔦屋重三郎は身代半分没収という憂き目に会った。南畝の狂歌仲間だった宿屋飯盛は江戸所払となった。

これは定信の政策のほんの一例だが、総じて定信は禁欲と質実剛健を庶民にまで求め、庶民の生活の細かいところまで介入した。そんなところから、始めは定信の登場を歓迎した庶民も、定信を鬱陶しく感ずるようになっていった。

  孫の手がかゆい所に届きかね 足の裏までかきさがすなり
  白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋ひしき

これは当時の落首だ。定信に対する民衆の鬱陶しい気持ちがよく現れている。またこんな落首も評判を呼んだ。

  世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜も寝られず

これには一時期、南畝の作だという噂が立った。出来栄えが余りに見事なので、南畝以外にこんなものを書けるものはいないだろうと思われたのだ。だが南畝自身は強く否定した。折角謹慎して身の保全を図っているのに、こんなものがもとで、身の破滅を招きたくなかったのだ。幸い南畝は言い逃れることができた。

ところで定信の政策の中でひとつだけ、南畝にとってプラスに働いたものがある。学問吟味である。

学問吟味とは、中国の科挙にならったもので、下級武士の中から学問に優れたものを抜擢し、これを幕政に重用しようとする制度だ。南畝はこれに応募して選抜せられ、それをきっかけに、遅まきながら出世の糸口をつかむのである。


    

  
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