日本語と日本文化


大田南畝と天明の狂歌


大田南畝が狂歌を始めたのは、狂詩の延長としてであったろう。狂詩は漢詩を下敷きにしているので、漢詩の教養がないとわからない。ところが狂歌はやさしい日本語で書くものだから、誰にでもわかりやすい。また自分でも作ることができる。こんなことから、南畝の始めた狂歌が次第に評判を呼び、ついには一大文化現象とでもいうべきものに発展していった。

始めた頃の仲間はみな、内山賀邸門下の同門生だった。朱楽菅江、唐衣橘州、平秩東作などである。南畝は四方赤良という狂名を使った。狂歌というものは言葉の遊びであるから、ひとりでしこしことやっているより、仲間内でわいわいやるほうが楽しいのだ。

そのうち評判を聞きつけて、次第に人が集まってきた。小大名から町人までさまざまな人が加わったが、彼らはみな一様に狂名を使い、浮世の秩序とは無縁の世界に遊んだ。こうした人々の熱狂に支えられて、狂歌の輪が広がり、いろいろな狂歌仲間が各地に生まれた。南畝はそうした人々を一堂に集めて、安永八年、高田馬場で一大狂歌イベントを開き、狂歌の普及をさらに推し進めた。

狂歌が社会全体を巻き込む大潮流となるのは、天明の時代に入ってである。天明三年、唐衣橘州が「狂歌若葉集」を、四方赤良こと大田南畝が「万歳狂歌集」を刊行したのがきっかけだった。

もともと狂歌と言うものは即興の遊びであり、その場で詠み捨てられていた。それではもったいないと言うので、それをまとめて刊行することに対して、需要が出てきた。南畝らはそれに応えたのである。囲碁の対局を本にしたものが、囲碁愛好者の間で需要を呼ぶのと同じ事情と言えよう。

「万歳狂歌集」とは「千載和歌集」をもじった命名だ。いかにもパロディ精神がつまっている。これが大好評を博し、狂歌全盛の時代を迎えたわけである。

だが狂歌の運動は、天明の後の寛政の時代になると、急にしぼんでしまう。指導者の南畝自身が狂歌から身を引いたこともあるだろうが、そのしぼみ方は異常なほどだ。あれほど一世を風靡したものが、こんなにもすみやかに消えてしまったのは、歴史上の不思議のひとつと言っても良いくらいだ。

さて、その狂歌とはどんなものだったか。ここに南畝自身の作品をいくつか引いてみよう。

  一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの
  いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし
  世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし
  昨日までひとが死ぬると思ひしがおれが死ぬとはこいつはたまらん
  世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい

こんな調子で、ほとんどは原歌どりのパロディだ。他の狂歌師も似たようなものだ。

  見渡せば金もお銭もなかりけり米櫃までもあきの夕暮 紀野暮輔
  死にとうて死ぬにはあらねど御年には不足はなしと人のいふらん 手柄岡持
  すかし屁の消えやすきこそあはれなれみはなきものと思ひながらも 紀定丸

狂歌というものは、言葉遊びとしては気が利いているが、文学としてみるべきものではない、そこが俳諧と違うところだ、こうした見方をするものが多いが、なかにはこれを積極的に評価するものもいる。永井荷風などはその最たるもので、「江戸芸術論」の中で、次のように書いている。

「そもそも俳諧狂歌の類は江戸泰平の中の時を得て漢学和学両文学渾然として融化租借せられたる結果現はれ来りしもの、便ち我方古文明円熟の一極点をしめすものと見るべきなり。然ればわが現代人のこれに対して何等の尊敬また何等の感動をも催さざるは社会一般の現状に徴して怪しむに足らざるなり。」

荷風散人一流の諧謔である。


    

  
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