日本語と日本文化


大田南畝と平賀源内:日本文学覚書


大田南畝の処女出版「寝惚先生文集」に平賀源内が序文を寄せた。源内はエレキテルの発明や博物学などによって歴史上ユニークな存在であるが、同時代人にとってはむしろ破天荒な戯文作者として有名であった。その高名な戯文作者平賀源内の序文を付したわけだから、南畝の処女出版は、人の評判を呼ぶのに何かと好都合な条件を獲得したわけである。その序文にいう、

寝惚先生初稿の序
味噌の味噌臭きは上味噌に非ず、学者の学者臭きは真の学者に非ず、方今の学者、居を品川に移しては、漢土の裏店に浜(ちかよ)らんことを思ひ、黒馬を目黒に放てば、唐人の人別に入らんことを祈る、所謂畠水練、炉兵法、議論鼻と予に高しと雖も、口を天井に釣ること能はず、論語四匁、世説六百、以て切店蹴転に比す、之を名づけて曰ふ、放屁儒と、孔門の辻番、宗廟の美を窺ひ見ては、そりゃ御箪笥町、友人寝惚子、余に其の初稿に序せんことを請ふ、余之を読むに、詩或くは文若干首、秦漢の派に径沿り、開天の域に直至にして、辞藻妙絶、外には無いぞや、先生即ち寝惚けたりと雖も、臍を探りて能く世上の穴を知る、彼の学者の学者臭きと相去るや遠し、嗚呼、寝惚子か、始めて与に戯家を言ふ可きのみ、語に曰く、馬鹿孤ならず、必ず隣あり、目の寄る所、晴が寄ると、余、茲に感有り、序して以て同好の戯家に伝ふ、これで野夫ならしょことがなひ、
明和丁亥秋九月             風来山人紙鳶堂に題す

源内は一方で、当世流行の漢学者を放屁儒と笑い飛ばしながら、寝惚先生の学者臭からず、世上の穴をよく知ることをたたえ、ともに語るに値する人物だと持ち上げている。他方では、自分同様世の中の役に立たぬ戯けぶりに耽っているとこき下ろしてもいる。狂文の類に寄せる序文としては、非常に気の利いたものである。

こうした戯けの精神は、源内が終生身に体していたもので、それが諧謔と為ったり、世の中に対する批判となって現れた。源内はこの戯けの精神を、まだ若い大田南畝の中に見だして、そこに同好のよしみを感じ取ったのだろう。

それにしてもこの本を出版したとき、大田南畝はわずか18歳、平賀源内は39歳であった。親子ほども年が離れ、しかも源内はすでにひとかどの有名人であったにかかわらず、何ゆえかくも南畝に惚れ込んだか。

平賀源内は讃岐高松藩の足軽の子として生まれた。軽輩ながら生来才能が豊かで学問もよくできた。若い頃に長崎に留学したことがきっかけで、西洋事情にも明るく、広い視野で日本の現状を見る目をもっていた。その最も得意とするところは博物学で、その知識をもとに、宝暦12年に東都薬品会という物産展を開催している。

この物産展は、日本で産出するありとあらゆるものを集め、それを分類整理して、人々に見せるとともに、生産者相互の知識を深めるという目的をもっていた。はたして数千点の珍しい品物が全国から集まり、大成功を収めた。

源内がこの物産展を開いたもうひとつの目的は、外国から輸入しているものの多くは国内でも生産できるのだということを証明することだった。そうすることで、大量の金銀がむざむざ国外に流出するのを防ごうと考えたのである。

このように源内は視野が広く、有能だったわりには出世には縁がなかった。そこで小藩に勤めて自由を束縛されるよりは、浪人となって好きな事をやろうと覚悟を決め、宝暦10年、35歳のときに藩へ対して辞職願を提出した。藩は有能な人材を他藩によって召抱えられることで自分の面子がつぶれることを恐れ、他藩に仕えないことを条件に許したのであった。

宝暦12年の物産展は、そんな源内が自由の身になって取り組んだ最初の大仕事だった。その後も源内は、測量機械や石綿を使った耐火布を発明する傍ら、風来山人などの名で、次々と戯作を発表していった。彼の浪人生活は、戯作の売り上げが支えていたようである。

有名人たる平賀源内の周辺には多くの人が集まってきた。杉田玄白など学者のほか、町人たちも気さくな源内を慕って集まった。だから南畝が源内のもとにやってきたのは、そう不思議なことでもなかったのである。

源内はまだ18歳のこの若者に、自分に似たものを見出したのかもしれない。境遇は御家人とはいえ、うだつが上がる身分でもない。だがその才能には一目おくものがある。しかも世の中をパロディで茶化してしまう手腕は、並々のものではない。そうした印象を強くして、この青年に惚れ込んだのだろう。

源内の序文も手伝ったのかもしれないが、この本は出版されるやたちまち全国に知られるようになった。だがこれを契機に、二人がますます親密になったかというと、そうでもない。源内は相変わらず破天荒な生き方を続け、南畝のほうは狂歌作者に転身して、時代の寵児になっていく。

源内はその後、寒暖計を作ったり、有名なエレキテルを作ったりして、更に名を高めた。その才能を田沼意次に認められて、二度目の長崎留学を果たし、そこで得た知識をもとに、鉱山発掘に取り組んで失敗したりしている。

源内には、自分でも制御できなくなるほど興奮する癖があった。あるとき、訪ねてきた常連の客二人に突然襲い掛かって、彼らを切りつけたことがあった。自分自身なぜそんな行動に及んだかわからぬほど、彼の奇癖は始末に終えぬものだったらしい。

源内はその罪で投獄された。獄中で彼は食を断ち、自らの命を絶ったのだった。


    

  
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