日本語と日本文化


「海辺のカフカ」の文体:村上春樹の世界


「海辺のカフカ」はいろいろな意味で、村上春樹の創作にとって画期をなすものだ。それはとりわけ小説の複雑な構成とか手ごたえのあるテーマを追求していることに現れている。それと並んで文体の面でも、以前の作品とは比較にならないほど深い陰影を作り出している。

筆者はまだ、村上の作品のすべてを読破しているわけではないが、それでも初期の青春三部作における軽妙な文体、ノルウェイの森における濃厚な文体と比較して、この作人に見られる文体が独特のものになっていることは感じ取れる。

村上春樹はすでにデビューした時点で自分の文体を確立しており、しかもそれは一読しただけで村上の文章だとわかるほど強烈な個性を持っていたとよくいわれるが、その村上にあっても、文体は変転ないし成長していたわけである。

初期の村上は、比ゆの用い方に独特の工夫があった。川本三郎が指摘しているように、通常は結びつくことのない事象を比ゆの中で結び付けてしまう。それがあたかも、肩透かしを食ったような、あるいは関節外しにあったような、奇妙な感覚を読者に与える。

これに対して「ノルウェイの森」の文体は、青春の息吹が聞こえてくるような色気を持った文体だった。筆者などはサリンジャーの「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」を思い起こしたほどだ。そこにはみずみずしさがあったといえる。

「海辺のカフカ」の文体は、それ以前の作品の文体と比べて格段に進化しているというのが、筆者の感想だ。

この作品は二層の構造からなっていることもあって、ひとつの文体で統一されておらず、二つの物語にそれぞれ相応しい二種類の文体が、フーガのコードのように交互に絡み合うように展開していく。

まず主人公である僕が出てくる部分は、僕による一人称の文体、それも完了形を一切使用しない、現在形のみからなる文体である。それは、主人公による一方的なつぶやきとしての文体といえる。もしもつぶやきを文体といえるのであればだが。

それに対してもう一人の主人公ナカタさんが出てくる部分は、三人称による説明的な文体である。これには村上の以前の作品に見られたようなノンシャランなところが、いっそう拡張された形で出てくる。

一人称の文体で小説を書くことは古来あったことだ。しかし全篇を通じて一人称を通すというのは、そう多くはない。しかも現在形だけで通すとなれば、いっそう珍しい試みといえる。

日本の作家で一人称を意識的に試みたものとして谷崎潤一郎を上げることができる。「卍」の女主人公は、全篇を通じてわけの分からないというに相応しいボヤキを、つぶやき続ける。それは完全に主観的な世界だ、というより女の意識の中身がそのまま形をとって現れたものだ。そこには客観性とか、社会性とかいうものは一切見られない。ただの女の狭い了見に閉じ込められた特異な世界だといえる。

「海辺のカフカ」で少年がつぶやく言葉は、「卍」の女主人公の言葉のように即物的で狭い意味作用しか持たないものではない。しゃべっているのは15歳の少年ということになっているから、ある意味では成人の女の言葉より幼いものであってもよいはずだ。ところがこの少年の言葉は、決して幼くはない。

この少年は普通の少年とは違って、思索的で、しかも論理的な思考をする。行動はときに幼さを匂わせるが、言葉は常に分析的な含意でいっぱいだ。それでいて、言葉に少年らしいみずみずしさを備えている。日本文学がかつて持ち得なかった、高度な表現がそこには見られるといってよい。

そのほんの一部分をここで取り上げてみよう。

「昼過ぎに暗雲がとつぜん頭上を覆う。空気が神秘的な色に染められていく。間をおかずはげしい雨が降りだし、小屋の屋根や窓ガラスが痛々しい悲鳴をあげる。僕はすぐに服を脱いで裸になり、その雨降りの中に出て行く。石鹸で髪を洗い、身体を洗う。すばらしい気分だ。僕は大声で意味のないことを叫んでみる。大きな硬い雨粒が小石のように全身を打つ。そのきびきびした痛みは宗教的な儀式の一部のようだ。それは僕の頬を打ち、瞼を打ち、胸を打ち、腹を打ち、ペニスを打ち、睾丸を打ち、背中を打ち、足を打ち、尻を打つ。目を開けていることもできない。その痛みには間違いなく親密なものが含まれている。この世界にあって、自分が限りなく公平に扱われているように感じる。僕はそのことを嬉しく思う。自分がとつぜん解放されたように感じる。僕は空に向かって両手を、口を大きく開け、流れ込んでくる水を飲む。」

これは大島さんに案内してもらった山中のキャビンに少年がいたとき、いきなり降ってきたスコールを描いた部分だ。

これを読むと、筆者は単純な一人称小説を読んでいるというより、散文詩を読んでいるような印象を覚える。言葉にはリズムがあり、色気があり、独特の意味作用がある。こういう文体は叙事詩の文体といってもよい。だからこんな文体に接した読者は、自分は小説を読んでいるのではなく、叙事詩それも壮大なサガを読んでいると錯覚するだろう。

この小説の半分はこんな韻律にとんだ文章が、心地よいリズムを伴って、読者を想像力の世界へといざなっていく。

これに対して、残りの半分は徹頭徹尾散文的な文章だ。それも説明的というよりは挑発的な散文だ。そこにはふんだんにずれた比ゆが出てくるし、滑稽な仕掛けがあちこちになされている。

ここでもそんな文体のほんの一部を取り上げてみよう。

「それで、このナカタが、あなたのことを、カワムラさんと呼んでも、よろしいのでありますね?」ナカタさんはその茶色の縞猫に、もう一度同じ質問をした。ゆっくりと言葉を切って、なるべく聞き取りやすい声で。
「その猫は自分はこの近くでゴマ(1歳、三毛猫、雌)の姿をみかけたことがあると思うといった。しかしながら猫はーーナカタさんの立場からすればということだがーーかなり奇妙なしゃべり方をした。猫の方にも、ナカタさんのしゃべっていることはもうひとつ理解できないようだった。そのおかげで彼らの会話は往々にしてすれ違い、意味をなさなかった。
「困らないけど、高いあたま」
「すみません、おっしゃっていることが、ナカタにはよくわかりません。申し訳ありませんが、ナカタはあまり頭が良くないのです」
「あくまで、さばのこと」

これは第10章の冒頭の部分。ナカタさんが初老の男として始めて登場するシーンだ。それ以前のナカタさんにかかわるパートは、完璧な説明文として書かれてきた。それがナカタさんの登場に伴って、俄然怪しい雰囲気を帯びるようになる。ナカタさんを囲む世界は、我々が日常慣れ親しんでいる世界とは異なった世界なのだ。そこではナカタさんは猫の言葉を話すし、ウィスキーのラベルから出てきたような非日常的な人間とかかわりあうし、空からいわしやひるを降らせたりする。そんなナカタさんを描くわけだから、文体も単なる三人称の説明体ではおさまらず、支離滅裂な意味作用をすることもある。

繰り返すがこの小説は、僕のつぶやきのような閉じられた世界の言葉と、現実と非現実とが反転した世界を語る悲鳴のような文体とが交互に登場する。そしてその相互作用の中から、複数の文体が絡み合った交響的な世界が繰り広げられる。


    

  
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