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村上春樹「国境の南 太陽の西」を読む


村上春樹の小説「国境の南 太陽の西」は完璧な恋愛小説、それも男女間の切ない恋を描いた究極の恋愛小説だ。村上春樹にしては、男女の恋愛感情を正面から取り上げたこの作品は、「ノルウェーの森」以上にリアリスティックであり、したがって素直でわかりやすい。読者はこの作品を読むことを通じて自分自身の恋愛体験をもう一度追体験できるだろう。

この小説のテーマは、一度失った愛を取り戻そうとする男女のあがきのような気持ちだ。二人は12歳の時に互いから遠ざかってしまった。しかしそのことで二人とも自分の心の中に巨大な欠落ができてしまったことを感じないではいられなかった。それ故、大人になってから、その欠落を埋めるために必死に苦しむようになる。欠落を埋めるためには、二人は結び合わねばならない。そのためには、主人公の男は自分の妻や娘たちを苦しめることになるだろう。でもそれは仕方のないことであり、自分でも抗いがたい力に動かされてのことなのだ。

男は女を島本さんと呼び、女は男をはじめ君と呼ぶ。小学生時代にこう呼び合っていたのだ。25年ぶりで再会し、いまや37歳の中年の男女になっても、二人はまだ少年少女時代の呼びかけ方を捨てないのだ。

島本さんと再会した男は、彼女に対しての恋愛感情が燃え上がり、彼女の肉体の中に入っていきたいと言う欲望にとらわれるが、それを実行することは、中年男としての分別が許さない。男は自分の妻や娘たちを愛しており、彼女たちを不幸にすることは忍び難い。だがそんな自制心は次第に失われていく。島本さんを永遠に失うかもしれないという恐怖感が、男に妻や娘よりも島本さんとの結びつきを優先させるように働きかけるのだ。

二人は一度日本海側にある川を散策した。その時に彼女は小さな壺から灰のようなものを取りだして、それを川に流した。その灰は死んだ彼女の子どものものだった。散策からの帰り道に、彼女は突然に意識を失った。男はそんな彼女を解放しているうちに、このまま彼女をさらってどこかに逃げてしまおうとも思った。しかしその場は踏みとどまった。妻や娘の顔が目に浮かんだからだ。

しかし、男はついに我慢ができずに自制心を失った。男は女を箱根にある自分の別荘に誘って、そこで自分の気持ちを伝えるのだ。

「僕はもう二度と君の姿を失いたくない...君はもう二度と戻ってこないかもしれない。僕はもう君に会えないまま人生を終えてしまうことになるかもしれない。そう思うと、僕はなんだかやりきれない気持ちになった。僕のまわりにある何もかもが意味のないものに思えた」

相手を失うことの恐怖感があらゆる世間的な知恵を圧倒して人間を破滅に至らしめる。よくある構図だが、その破滅がこの小説の中では何か必然的なことのように語られているのに読者は圧倒されるのだ。

女は男がそういうのを待ち構えていたように答える。

「二度とわたしにどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私のことを隅から隅まで全部。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの?それが何を意味しているかもわかっているの?」
「よくわかっているよ」と僕はいった。
「それでもあなたは本当に私と一緒になりたいの?」
「僕はもう既にそれを決めてしまったんだよ、島本さん」と僕はいった。

互いに交わる前に、女は男を裸にして、男の体中をなめまわす。そして男の身体の一部を愛撫しながら、マスターベーションを始めるのだ。

「彼女はまるで生命そのものを吸い取ろうとしているかのように、僕のペニスを吸い続けた。彼女の手はまるで何かをそこに伝えようとするかのように、スカートの下にある自分の性器を撫でていた。少し後で僕は彼女の口の中に射精し、彼女は手を動かすのをやめて目を閉じた。そして僕の精液を最後の一滴まで舐めて吸った」

この場面は読者にとっては、それなりにショッキングだ。女は何故男に抱かれる前にマスターベーションをしたのか。話の流れに必然性がない。純粋な恋愛小説として進んできた話の流れが、ここで急に方向をかえ、純愛物語が恋愛遊戯に転化したように、読者には受け取れるのだ。

ここで読者はあらためて、女のプロフィールが物語の中で意図的にぼやかされてきたことに気づかされる。女は男の視線の先にあるものとして語られるだけで、自立した存在として客観的に語られることはなかった。

女が非常に金のかかった身なりをしていること、子どもの頃から悪かった足を最近手術で治したことなどが語られるのみだ。また時折男の前から姿を消してしまうことも語られていた。こんな情報から読者もまた、女がかなり派手な生活を営んでいるらしいことに思いあたる。その女が、恋人との間で最初にマスターベーションをするというのは、いったいどういうことか。

もしかしたらこの女は、前作の「ダンスダンスダンス」の中で出てきた高級コールガールの延長線上の女なのかもしれない。そんな風に思わせるところもある。

ところで村上春樹自身はこの作品を「ねじまき鳥クロニクル」のアウトテイクを使って書いたと、あるインタビューの中で言っている。この作品の発表と「ねじまき鳥クロニクル」の連載開始とが同じ年月であることから、二つの作品は並行して書かれたのだろう。

だがこの二つの作品は非常に異なった雰囲気のものだ。ねじまき鳥のほうがファンタスティックなのに対して、太陽の西はリアリズム小説だ。だが共通点もある。それは失われたものを探す物語だということだ。ねじまき鳥では主人公は消えてしまった妻の行方を求めてさまよい歩く。太陽の西では失われた初恋を取り戻そうとして主人公が煩悶する、といった具合に。

女が男を相手にマスターベーションをするというイメージは、ねじまき鳥の中で加納クレタが想像力の中で主人公とセックスするシーンと共通するところがある。加納クレタは夢の中で主人公の腹の上に跨り、主人公のペニスを自分のヴァギナに導きいれる。それはまた加納クレタ自身にとっては、現実の出来事として受容されるべきものなのだ。

それにしても村上春樹という作家においては、リアリズムとファンタジーは基本的に通底しあうものらしい。ファンタスティックな事象は、現実の中に確固とした場所を持っている、ただその場所を探り当てるのには一定の想像力が必要だ、ということのようだ。


    

  
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