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少女のイニシエーション:村上春樹「アフターダーク」


「アフターダーク」という小説は(少女の)イニシエーションの物語だと、作者の村上春樹本人があるインタビューの中で述べているのを読んで、おやと思った。女子の場合にもイニシエーションと云うものがあるうるのだという当たり前のことに気づかされたのがひとつ、もうひとつは、この小説が一人の若者(少女)の成長の物語という側面を持っていることに気づかされたのが新鮮だったのだ。

たしかに主人公のマリという少女は、村上がいうように、真夜中から明け方までの時間を、ひとりで潜り抜けようとしている。「そういう試練を進んで自ら引き受けることによって、具体的に何を証明しようとしているのか」たぶん本人にもわかってはいないのかもしれないが、そうすることが自分のためにも眠り続ける姉のためにも必要なことなんだと、無意識的に認識している。

彼女はその試練に耐えて、夜の一番深いところを潜り抜けていく。そんな彼女を助けるのは、世の中のアウトサイダーたちだ。ラヴホテルの女マネージャーや素性のしれない二人の下働きの女たち、中国人の娼婦とマフィア、そうした裏社会で生きている人物たちがマリにかかわることで、マリは痛みを経験したり、恐怖を潜り抜けたりして、真の大人に成長する。

人間が子供から大人になるためには、こうした断然が必要なのだ。人間はのんべんだらりと、日常性の延長の先に、大人としての生き方を生きるようになるのではない、またなってはいけない。やはりそこには超えるべき断絶があるべきなのだ。またその断然を是非自分自身で超えるべきなのだ。それは性別によって相違のあることではない。村上はこういっているようなのだ。

その点、サリンジャーのホールデン少年は、イニシエーションを体験することがなかった。これが村上の認識である。ホールデンはイニシエーションを体験できなかったことから、真の大人になれず、したがって永遠の少年のままでいるだろう。「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」という小説が、何とも甘酸っぱい感じを読者に抱かせるのは、主人公の永遠の少年性がしからしめるのではないか。

読者にだって、自分ができそこないの大人でしかないし、そのことが自分の中途半端な少年時代に由来しているのかもしれないと感じている人は多いだろう。そういう読者はホールデン少年の中に自分の蹉跌した少年時代を思い浮かべ、そのことを通じていたたまれぬような哀愁を感じるのではないか、筆者などはそんな風に思ったりもするのだ。


    

  
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