日本語と日本文化


村上春樹作「アフターダーク」を読む


村上春樹の小説「アフターダーク」は、「海辺のカフカ」の後で書かれた最初の長編小説である。長編とはいっても、やたら長いのが普通な村上の作品としては比較的短い。文庫本にして300ページ足らずだ。だから中編小説といってもよい。

短いからだろうか、無駄なところがない。それでいて内容は濃い。題名から類推されるように、日が暮れてから夜が明けるまでの一晩の出来事を描いている。二人の姉妹の行動あるいは様子を、交互に語っているのだ。

二つの時空を交互に語るという点で、この小説は「海辺のカフカ」と構成が似ている。語り口も似ていなくはない。この小説は、我々という第三者的な語り手による三人称の文体を採用しているのだが、普通の三人称小説と違って、説明的な雰囲気がない。その語り口は、語りと云うよりはつぶやきというのに近い。つまり三人称でありながら、一人称的な雰囲気を持っている。たとえば、こんな具合だ。

「私たちは目に見えない無名の侵入者である。私たちは見る。耳を澄ませる。においを嗅ぐ。しかし物理的にはその場所に存在しないし、痕跡を残すこともない。言うなれば、正統的なタイムトラベラーと同じルールを、私たちは守っているわけだ。観察はするが介入はしない」

これは、ベッドの上で昏睡している姉の浅井エリについて、語り手が語っているところだ。この文章からわかるように、語り手は状況を説明しているというより、自分が見たり、聞いたり、嗅いだりしたことを、読者に向かってというより、自分自身に向かって語りかけているように聞こえる。そこがこの小説が、三人称でありながら、一人称であるかのような、逆説的な効果をもたらしている所以だ。

語り口がつぶやきのように聞こえるのは、それが現在進行形の文体だからだろう。現在進行形は「海辺のカフカ」でも用いられた。少年カフカのパートで、少年が語る一人称的な文体がそれだった。

「海辺のカフカ」では、主人公が現在進行形で語ることに、あまり違和感はなかった。一人称の文体が現在進行形を取ることは珍しいことではないからだろう。

ところがこの小説では、我々という複数の語り手が、自分が見聞したことを第三者に向かって報告するという体裁を取っていながら、説明的にはなっておらず、つぶやきのようなものになっている。第三者にむけての情報発信が、自分自身にむけての確認のような趣を呈しているわけだ。そこに読者は逆説を感じてしまう。

以上は、この小説の形式上の側面だ。内容の方も、形式に劣らずユニークだ。主人公は姉と妹という風に二人いて、彼女らの行動乃至様子が交互に語られるという点については、上述した。様子という言葉を使ったのは、姉のエリのほうは、ずっと眠ったままで、何らの行動もしないからだ。それに対して妹のマリの方は、たった一晩の間に、実に様々な行動をする。それも実にユニークな行動を。

妹のマリの方は、新宿らしい繁華街の喫茶店の片隅で、高橋という青年と出会う。高橋は姉のエリとは知り合いなのだった。その青年ととりとめのない話をした後、マリはカオルという女と知り合いになる。身長が175センチもある大柄な女で、かつては女子プロレスラーだった。今はアルファヴィルというラブホテルの支配人のような仕事をしている。

カオルが来たのは、高橋にマリを紹介されたからだった。カオルの店でトラブルがあった。中国人の女が客の男からひどい暴力を受けた挙句、身ぐるみはがされて真っ裸で部屋の中に取り残された。日本語が話せないので、事情を聴くことができない。それで中国語に堪能だというマリを頼ってきたのだというのだった。

マリはカオルの店で、中国人の女と中国語で会話したり、ホテルの従業員と世間話をしたり、カオルの勇気ある行為を眺めたりする。中国人の女はマリと同じ19歳だった。その女を買った日本人の男が暴力を振るったのは、女が急にメンスになって、交尾ができなくなってしまったからだ。激昂した男は女をさんざん殴った挙句、身ぐるみ剥いで、裸のままおきざりにし、ホテル代も踏み倒していった。そんな男をカオルは絶対許せないという。

「でもなあたしの性分として、こういう悪質なやつを黙ってそのまま見過ごすわけにはいかねえんだよ、とにかく。弱みにつけこんで女をぶん殴って、身ぐるみはいで持って行っちまって、おまけにホテル代まで踏み倒す。男の屑だ。
「そういうキンタマの腐ったサイコ野郎は、とっ捕まえて半殺しの目にあわせなあきまへんね、とコオロギはいう。
「カオルは大きくうなずく」

こうしてかおるたちは全力で男の割り出しをし、その情報を中国人の闇の男に引き渡す。

マリと高橋青年はもう一度会って、色々な話をする。その中で高橋は自分の過去を語り、マリは姉のエリとの関係について語る。高橋はこれまでミュージシャンになろうとして頑張ってきたが、自分の才能に見切りがついたので、これからは弁護士になろうかと思うと語る。その話の中で、高橋は日本の法律社会というものに、厳しい批判を向ける。おそらくオウム真理教の事件から得た村上自身の法曹批判を踏まえているのだろうと思う。

一方、エリの方にもちょっとした異変が起こる。彼女の寝ていたベッドがそっくりそのまま、異次元と思われる別の空間に移動してしまうのだ。なぜそんな事態が起きたのか、語り手たちにも訳が分からない。彼らは起きてしまった出来事に対して、現実にどうすることもできないのだ。

「純粋な視点としての私たちにできるのは、ただ観察することだけだ。観察し、情報を集め、もし可能なら判断を下す。彼女に手をふれることは許されない。話しかけることもできない。私たちの存在を遠回しに示唆することさえできない」

こうして視点としての私たちは、微細に観察を続けた結果、その別の空間としての部屋が、あの中国人女に暴力を振るった日本人の男と何かの関係があることだけは確かなようだと判断する。こうしてマリの生きている時空と、エリの寝ている時空とが、思いがけないところで交差する。

エリがふと目覚める、彼女は自分が陥っている不思議な情景を目にする、彼女は自分が苦境に陥っていることを理解する、でもどうすることもできない、そんな状況を描いているうちに、語り手の語り方は、いつとはなしに説明的になる。

「エリは自分の顔を指先で隅々まで撫でてみる。パジャマの上から自分の乳房に両手をあててみる。それがいつもの自分であることを確認する。美しい顔と、形の良い乳房、私はこうして一つの肉塊であり、一つの資産なのだ、と彼女はとりとめもなく思う」

こんな文章から読者が受け取るのは、第三者の心の動きそのものは、一人称では語れないという当たり前のことだ。それは、説明はできても、了解できるものではない。

夜明け近くになって、マリは高橋から交際の深化を求められる。マリはそれをやんわりと拒絶する。青年はマリが自分を受け入れてくれるようになるまで、いつまでも待つという。

家に帰ったマリは、姉のベッドにもぐり込んで、一緒に寝る。そうすることで、失われてしまった姉妹の絆を取り戻そうとするかのように。


    

  
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