日本語と日本文化


小林緑:ノルウェイの森のもう一人の女性


ノルウェイの森の主人公「僕」には二人の女性が重要な役回りで出てくる。直子と緑だ。直子の方が陰だとすれば緑は陽、陰陽の対立のような形で僕の青春を彩る。

直子に比べて緑の性格はかなり単純化されて描かれている。そこのところが読んでいてすがすがしい感じをさせる。彼女は僕に対してあけすけで、何の隠し事もしない、そんな彼女に僕の方も心を開いて接することができる。

そんなところから、緑は直子よりも存在感があるといってよい。直子は僕の憶測の中でしか自分を読者に対して示さないのに対して、緑の方はありのままの姿で読者の前に現れる。読者は僕と同じ視線で緑を眺めることになるわけだ。

「緑色は好き?」
「どうして?」
「緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色は好きかって訊いているの」
「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」
「とくに好きなわけじゃない、なんだっていいんだよ」と彼女はまた繰り返した。
「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでにそういわれたことある?」
「ない」と僕は答えた。
「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」

これは緑が僕の前に初めて現れた時の自己紹介だ。読者は僕が聞いたのと同じような次元でこの緑の言葉を受け取ってよい。彼女は緑という名前にもかかわらず緑色が似合わない少女らしくない少女なのだ。

少女らしくない緑は少女らしい恥じらいを持たない。無邪気な少年のように、不思議に思ったことは何でも誰それ構わず聞きたくなるのだ。たとえば男の子の生理について。そんな緑に僕は事務的に答えてやる。僕にとって本当の恋人は直子の方で、緑は性愛の対象にはならないからだ。

緑は面白そうだから一度是非その寮を見たいと言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。
「男の学生が何百人薄汚い部屋の中で酒飲んだりマスターベーションしたりしてるだけさ」
「ワタナベ君もするの、そういうの?」
「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じように、男はマスターベーションやるんだ。みんなやる。誰でもやる」
「恋人がいる人もやるのかしら?つまりセックスの相手がいる人も?」
「そういう問題じゃないんだ。僕の隣の慶応の学生なんてマスターベーションしてからデートに行くよ。そのほうが落ち着くからって」
「そういうのって私にはよきうわかんないわね。ずっと女子校だったから」

緑は僕もマスターベーションをするのだと知らされ、また僕がマスターベーションをするときには性的な夢想にふけるのだときかされると、自分をその夢想の中に登場させてくれとねだる。

「一回くらいちょっと私を出演させてくれない?その性的な幻想だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友達だから頼むのよ。だってこんなこと他の人に頼めないじゃない?今夜マスターベーションするときちょっと私のこと考えてね、なんて誰にでもいえることじゃないじゃない?」

実に奇想天外で、しかも天真爛漫というべきだ。彼女はこんな調子で、僕にエロティックなことを話しかけてばかりいるのだが、僕にはそんな緑と話をするのが楽しい。だが緑の方から僕に愛を求めてくると、僕はたじろがざるを得ない。ぼくはこの小説の中で様々な女性とセックスするのに、緑とだけは最後までセックスしないのだ。そんな僕を緑は盛んに挑発するようになる。

「私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部脱いでじっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。はい、お父さん、これおっぱいよ、これオマンコよって」と緑は言った。
「なんでまた?」といささか唖然として質問した。
「なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分はお父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘ですよって」

これは明らかにセックスへの挑発だ。でも僕は乗らない。それは僕が緑を一人の女性として尊重していることの証かもしれない、と作者は仕掛けているフシがある。

直子とのことが終わって、自分の気持ちの整理をしているうちに、僕はいくぶん自分が大人になったのを感じる。そんな僕に緑のほうも、ほんとの恋人として向き合ってほしいと要求する。だが僕はまだそんな気にはなれない。直子とのことが心の中で完全に整理されないうちは、緑とやるわけにはいかない。裏を返せば緑は僕にとって大事な存在になってきているからだ。

しかし僕が大人になって直子とのことをある程度整理することができるようになったら、あるいは緑を受け入れるようになるかもしれない。緑はそれを期待しつつ、僕が振り向いてくれるのを待つというのだ。

そうして緑には、あるときワタナベ君が、大人になって、自分を受け入れてくれるのではないか、そんな気がする瞬間が訪れる。

「ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君?」と緑は言った。「ずいぶんやせちゃったじゃない、あなた?」
「そうかな?」と僕は言った。
「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?」
僕は笑って首を振った。「去年の十月の始めから女と寝たことなんか一度もないよ」
緑はかすれた口笛を吹いた。「もう半年もあれやってないの?本当?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?」
「大人になったからだよ」と僕は言った。

大人になった僕がはたして緑を受け入れたのか、小説はあからさまには語っていない。だからといって彼女のこの小説の中での存在感は圧倒的だ。筆者などは、この小説を純粋な青春小説として書くんだとするなら、直子を持ち込んだりしないで、緑だけを僕の恋人に設定したほうが、完成度の高い作品になったかもしれないと思ったりしている。

  
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