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三島由紀夫の天皇観:などてすめろぎはひととなりたまひし


先日、西部邁と佐高信が対談の中で三島由紀夫を語ったことについて、このブログで取り上げた際には、三島の憂国ということをテーマにしたわけだが、この対談にはもうひとつ面白いテーマがあった。それは三島の天皇観とでもいうべきものだ。三島は、天皇の人間宣言をひどくショッキングに受け止めたらしく、「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」という言葉を発したが、それは三島が天皇について誤解していたあらわれだと西部が言ったことに、筆者は聊かの関心を覚えたのだった。

西部は、三島がこういうわけは、彼が天皇を神だと考えていたからだとした上で、三島のその認識は誤っているというのだ。西部の考えるところでは、天皇というものは神ではない。神をまつる神職の最たるもの、つまり神主の親玉に過ぎない。そんな天皇を神と勘違いしたからこそ、三島はその神に命を捧げることもできたのだろうが、もしそうなら、三島の死は無駄死にだったといわざるをえない。こんな趣旨のことを、明確な言葉としてはあらわしていないにしても、西部は言っているように、筆者には聞こえたのである。

西部は、同じ右翼でも、天皇原理主義的な右翼ではない。むしろ、天皇に対しては距離を置いているように見える。だから、このような発言が出て来るのだろう。

たしかに天皇は、もともと神を僭称していたわけではない。記紀神話の中でこそ、天皇家は天孫の末裔だというようなことを言っているが、それは神話の中だけの話で、実際のまつりごとにおいては、天智天皇の時代はともかく、その後の天皇の時代においては、天皇みずからが神と名乗ったことは一度もない。

天皇が神を僭称する、あるいは人々が天皇を神に祭り上げる、そういうことが起こったのは明治維新以降のことであり、天皇の神格化が庶民の間にも当然のこととして浸透したのは、日本が世界を相手に戦争するようになって以降のことである。

戦争とは、当然のことながら、国民を徴兵して、彼らを戦場に駆り立てることを前提とする。普通の国民を戦争に駆り立て、彼らを、死を恐れず戦うように仕向けるには、それ相応のモチベーションが要る。人間というものは、余程のモチベーションが無ければ、自分の命をかけてまで戦う気にはならないものだ。

そのモチベーションとして、明治以降の軍国主義者たちが注目したのが天皇の神通力ともいえる力だ。その神通力を以てすれば、一般国民に天皇を神と思わせ、天皇のためには喜んで命を捧げる、そのようなモチベーションを確立することができる。当時の軍国主義者たちが、そう考えたのには相応の理由があったと言わざるを得ない。

兵士たちが天皇陛下万歳と言いながら死んでいったことの背景には、天皇を神だとする一般庶民の素朴な信仰があり、その信仰が兵士たちを奮い立たせて戦場に赴かせた、そしてそれを巧妙に仕組んだのは、明治以降の軍国主義者たちだった、ということは十分に言えることなのだ。

戦前の戦意高揚映画を見ると、「子どもは天子様からの授かりものだから、天子様にお返しするのは当たり前のこと」というような言い方がよく出てくる。これは、天皇を神として位置付け、自分の子どもをその神の授かりものだとする考え方であって、徴兵制度を、人々の意識の底から支えるような考え方であったわけだ。こうした考え方が一般庶民の間にも浸透していたからこそ、子どもや夫を戦場に送り出した人々は、その死を自分自身のみのこととしてではなく、国家公の必要事として、受け止めることができたのであろう。

だが、これは虚構だ、と西部はいうわけだろう。その虚構に三島は囚われていた。天皇は、三島が考えていたような神ではなく、ただの神主だった。そのただの神主である天皇を、三島も、また戦前の庶民も、神としてあがめた。ところがその神という言葉は、中身のない空虚な呪文のようなものだった。

だとすれば、戦争で子どもや夫を天皇の名のもとに失った人々は、自分を慰めるべき支えを持たない。まして三島の天皇崇拝には確固とした根拠はない。そう西部はいうわけだろう。

しかし、なぜ三島ともあろうものが、このような錯誤にはまってしまったのか。それについて、西部は言及することを避けている。それは、西部が三島を心から愛していることのあらわれなのだろう。


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