日本語と日本文化


銀河鉄道の夜:宮沢賢治を読む


「銀河鉄道の夜」には、宮沢賢治が生涯をかけて追求したテーマに対する一定の回答が込められている。賢治が追求したテーマは、微細に分類すると多くの枝に分かれるが、幹ともいうべき部分は、魂の永遠性ということだ。

人は死んだ後にこの世から消えてなくなってしまうのではなく、どこかで必ず生き続けている。それは他者の心の中で生きているといった抽象的な生き方ではなく、現実の自立した存在として生きている。そしてわれわれこの世に生きているものたちと、たしかな実在感を以て交流することだってできる。

このような魂の永遠性に関する信念を賢治は、愛する妹トシの死をきっかけにして、真剣に希求するようになった。

賢治はトシの死をなかなか受け入れることができず、輾転反側して煩悶する中から、「永訣の朝」を始め一連の美しい詩を生み出したのであったが、そのうち、自分の苦しみはトシが永遠に消えてしまったと感じるその心のありようからもたらされるのだと考えるようになった。もしもトシがこの世ではいったん死んだのだとしても、宇宙のどこかで生き続けているのだとしたら、自分の苦しみには理由がなくなる。

こうして賢治はトシの魂の行方を求めて、北の果てまで探求の旅をする。オホーツク挽歌と称される一連の作品は、この旅の中から生まれたものだ。賢治はそれらの作品を通じて、ついにトシの魂の所在について大きな確信を持つようになった。

その魂が単に賢治の心の中にだけわだかまっているのではなく、どこか別の実在する世界にあるのだとしたら、それはどこなのか。またその魂とどのようにしたら、この世のものは交流することができるのか。

ここで賢治は独自の宇宙観に達するのだ。われわれが生きている三次元世界ともいうべきものは、その中にいるものにとっては、われわれの生存を画する限界であるが、もし三次元を超えた多次元的世界というものがあって、そこでは三次元のなかでは消えたと思われたものを、別の形で保存していると考えたとしたらどうだろう。

賢治はアインシュタインの相対性理論を知っていた。賢治はその理論を自分なりに応用して、三次元世界を取り込んだようなかたちの、もっと高次な四次元的な世界が成り立ちうるのだと考えた。

法華経にも現実の世界とは次元を異にするより高次の世界があって、その立場からすればこの世の現実は別の形に見えるという教義がある。だがそれは宗教的な心情に支えられた、半ば願望を含んだ確信だ。それに対して相対性理論に基づいた異次元の構想は、賢治にとっては科学的な根拠に立ちうるものだった。

こんな考えから賢治は、トシの魂は四次元空間のどこかに、きっと生前の姿のままに保存されているに違いないと確信したのである。

それではその異次元にいるトシの魂と、賢治はどうやったら交流することができるのか。最初の頃は透き通った風が賢治をトシのもとまで運んでくれると考えていたようだ。だが賢治はこの確信をより強固にするために思索を重ね、その中から一定の新しい確信を導き出した。

銀河鉄道とは、この世に生きているものが、死者たちの魂をも含めた異次元の存在と出会うための旅を、媒介するものなのである。

銀河鉄道の夜という物語は、ジョヴァンニという少年が、知らず知らずのうちに銀河鉄道に乗り込み、これもまたいつの間にか現れた友達のカンパネルラとともに銀河を旅するという物語である。その旅の中で、ジョヴァンニは色々な経験をする。そして最後には心を洗われたようになって現実の世界に戻ってくる。ジョヴァンニは現実の世界では疎外された存在なのだったが、銀河鉄道での経験がその疎外感を乗り越えさせる。銀河鉄道の旅から戻ってきたジョヴァンニは、いまや一段高いところから自分を見ることができるようになる。

銀河を経巡る列車の旅はめくるめくような世界を見せてくれる。さまざまな星座をめぐって語られる言葉は、御伽噺のように美しい。そして列車の中に現れては消えていく一群の人々はすべて、この世で死んだ後で、別の世界で生き返るために銀河鉄道に乗り込んできたのだ。カンパネルラも実は、ジョヴァンニの前に現れたときに、現実の世界では川の水におぼれて死んでいたのだった。

ここでジョヴァンニが銀河鉄道に乗り込む場面を見てみよう。この物語の中でもっとも美しい部分のひとつだ。

ジョヴァンニは星の祭を見ようとして外へ飛び出すが、友達から疎外されて、ひとり夜の丘に登る。そこからは灯りの中に輝く家々が見渡され、また天気輪の柱が立っている。それが宇宙樹のように、地上と天空とをつなぐシンボルであることはいうまでもないだろう。すると

<そこから汽車の音が聞こえてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果(りんご)を剥(む)いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。
 あああの白いそらの帯がみんな星だというぞ。>

<するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云(い)ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊(ほたるいか)の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈(しず)めたという工合(ぐあい)、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫(と)れないふりをして、かくして置いた金剛石(こんごうせき)を、誰(たれ)かがいきなりひっくりかへして、ばら撒(ま)いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦(こす)ってしまひました。
 気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけてゐたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座ってゐたのです。>

このように銀河鉄道は一瞬のうちに現れ、あっという間にジョヴァンニを異次元の世界へと連れ去っていく。それは「青森挽歌」の中で、現実の列車がいつの間にかリンゴの実の中を走るようになり、窓の外には異次元の風景が展開したことと似ている。ジョヴァンニは夢を見るのではなく、いつかしらず異次元の世界へとワープするのだ。


    

  
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