日本語と日本文化


よだかの星:宮沢賢治の童話を読む


宮沢賢治には疎外をテーマにした一連の作品がある。「風の又三郎」は共同体から疎外された少年を、共同体の視点から描いたものといえるし、「銀河鉄道の夜」の主人公ジョヴァンニは共同体の祭りから疎外されて、その中に加われないでいるうち、ひとり天空への旅へと飛躍していく。

「よだかの星」もまた疎外されたものの不幸な自己意識を描いている。主人公のよだかは、醜さゆえに周囲から排除され、自分の居場所を見つけることが困難なほどの疎外感を感じるばかりか、「たか」という名前をもつばかりに、本当の鷹から脅かされ、名前を変えるように強制される。名前は自分のアイデンティティに関わるものだから、それを捨てることは自分自身を捨てることに等しい。

こうして世の中から疎外されるばかりか、アイデンティティまで脅かされたよだかは、地上の世界から逃げ出して、天空の世界に住みたいと願う。そのためには太陽や星の火に焼かれて死んでもかまわない。天空の世界なら、自分にふさわしい場所が得られるに違いない、そう思うようになるのだ。

この願いどおり、よだかは地上の世界から生まれ変わって星になることが出来た。そのためにはいったん、この世での命を死ななければならなかったが、その代わりに得たものは永遠の命だった。しかもこれまではみんなに見下され、のけ者にされるばかりだったのに、星に生まれ変わった後は、地上のみんなから見上げられ、愛され続けることができる。

死んで星になるという設定は、「銀河鉄道」のなかのさそりの火の挿話にも現れるが、この物語におけるよだかの場合には、自分の意思にもとづいて星になったということがポイントである。

よだかは何故星になりたかったのか。この世に生きることの辛さから逃れ去りたいという願いが働いていたことは見て取れる。だからこれは魂の逃走譚ということもできる。逃走先としてよだかが星を選んだことは、星であればみんなに愛される、つまりいまよりずっと幸福な生き方がえられる、そうに違いないという予想があったからだろう。だからこれは魂の自己愛の物語ということもできる。

よだかは以外にあっさりと星になれた。もちろん星になるためにさまざまな試練が必要だったが、よだかを星にさせた力は、自分の意思に忠実だったという、よだか中の自発的な力である。よだかは他者の力を借りてではなく、自分の力によって目的を達成し、星になることが出来たのである。

物語は、よだかが自分を救いのない存在だと自覚するにいたった原因を、説明することから始まる。

<よだかは、実にみにくい鳥です。
 顔は、ところどころ、味噌(みそ)をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
 足は、まるでよぼよぼで、一間(いっけん)とも歩けません。
 ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。>

このようによだかがみんなから疎外されるのは、よだかが醜いからだという。それをよだか自身も受け入れている。実際は、そう思わなければならないほど、よだかは醜いわけではない。それなのにただひたすら、自分の醜さに心を痛めるのだ。

<ところが夜だかは、ほんとうは鷹(たか)の兄弟でも親類でもありませんでした。かえって、よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂(はち)すずめの兄さんでした。蜂すずめは花の蜜(みつ)をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。それによだかには、するどい爪(つめ)もするどいくちばしもありませんでしたから、どんなに弱い鳥でも、よだかをこわがる筈(はず)はなかったのです。>

そんなよだかの所へ本物のたかがやってきて、おまえはおれの名前を勝手につけたのだから早く返せと迫る。よだかは自分が勝手につけたのではなく、神様からもらったのだというが、鷹は納得しない。よだかの名前をやめて、市蔵という名前に変えろと脅す。その上、名前を変えたということをみんなに知らせるために、首に札をぶら下げて挨拶して回れと命令する。よだかは途方にくれてため息をつく。

<(一たい僕(ぼく)は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂(さ)けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊(ぼう)のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)>

よだかには醜いが故の疎外感のほかに、もうひとつ悩みがあった。それは自分のようなものでも、生きていくためには大勢の虫たちを殺さなければならないということだった。

<あたりは、もううすくらくなっていました。夜だかは巣から飛び出しました。雲が意地悪く光って、低くたれています。夜だかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまわりました。
 それからにわかによだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、まるで矢のようにそらをよこぎりました。小さな羽虫が幾匹(いくひき)も幾匹もその咽喉(のど)にはいりました。
 からだがつちにつくかつかないうちに、よだかはひらりとまたそらへはねあがりました。もう雲は鼠色(ねずみいろ)になり、向うの山には山焼けの火がまっ赤です。
 夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。一疋(ぴき)の甲虫(かぶとむし)が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑(の)みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
 雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐(おそ)ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)>

こうしてよだかはついに、この世からいなくなって、天空の彼方へ飛んでいってしまおうと決意する。弟のカワセミと別れの挨拶をした後、よだかはまず太陽に向かって、つれていってくれと頼む。だが太陽はいくら向かっていっても一向に近づくことが出来ない。そんなよだかに太陽は「おまえは昼の鳥ではないから、星たちに頼んでごらん」という。

<夜だかはおじぎを一つしたと思いましたが、急にぐらぐらしてとうとう野原の草の上に落ちてしまいました。そしてまるで夢(ゆめ)を見ているようでした。からだがずうっと赤や黄の星のあいだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、又鷹が来てからだをつかんだりしたようでした。
 つめたいものがにわかに顔に落ちました。よだかは眼(め)をひらきました。一本の若いすすきの葉から露(つゆ)がしたたったのでした。もうすっかり夜になって、空は青ぐろく、一面の星がまたたいていました。よだかはそらへ飛びあがりました。今夜も山やけの火はまっかです。よだかはその火のかすかな照りと、つめたいほしあかりの中をとびめぐりました。それからもう一ぺん飛びめぐりました。そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫(さけ)びました。
「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」
 オリオンは勇ましい歌をつづけながらよだかなどはてんで相手にしませんでした。>

オリオンに相手にされなくてもよだかはあきらめず、南の大犬座や北の大熊星、東の鷲の星に向かってつぎつぎと頼みを重ねる。だがどの星もよだかを連れて行ってくれようとはしない。

力がつきて地面に落ちていくよだかに身の上に、突然異変が起こる。よだかは自分の力によって星になるのだ。

<よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄(にわ)かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲(おそ)うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
 それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻(すいがら)のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
 寒さにいきはむねに白く凍(こお)りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜(しも)がまるで剣のようによだかを刺(さ)しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居(お)りました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。>

この物語を読むと、仏教的な輪廻転生観が色濃く反映していることが感じとれる。それは賢治の法華経信仰からしても、納得できることだ。

賢治は輪廻転生を救いの方便として考えていたのかもしれない。救いは自分自身の心の中にあると、言いたかったのだろう。


    

  
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