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山の音:川端康成の背徳小説


川端康成の代表作といえば「雪国」の名を挙げる人が殆どだと思うが、中には「山の音」をあげる人もいる。また、この二つの甲乙つけがたいことを評して、「雪国」が川端の代表作とすれば、「山の音」の方は戦後日本文学の最高傑作だなどという人もいる。この二つの言説は矛盾しないので、決して苦しまぎれの出まかせとは聞こえない。

筆者は「山の音」も傑作には違いないと思うが、「雪国」の方がもっとすぐれた作品だと思う。「山の音」は戦後の作品で、当然「雪国」より後に書かれたものだが、その「雪国」より退化したと思わせるところがある。というより、雪国以前の川端の小説スタイルに逆戻りしているところがある。

川端の小説の特徴は基本的には、主人公の目に映る世界をそのままに淡々と語るというものであり、したがって単眼的な叙述スタイルを取っている。また、主人公以外の人物は主体性に欠けていて、自己というものを持っていないように描かれている。主人公にとっては、人間も陶器の茶碗も大して変りはない。どちらも、主人公にとっては物としての存在で、精神性などひとかけらも持っていない。物とはすなわち感覚の対象であって、一方的に見たり、触ったり、匂いを嗅いだり、要するに知性とはかかわりのない存在だ。川端の小説とは、精神を持たない「物」のような存在が、主人公の感覚を刺激する、その刺激のありさまをもったいぶって陳述している、といったようなものだといえる。

ところが、「雪国」の場合には、主人公以外に精神性をもった人物が登場する。駒子である。小説の中の駒子は、主人公の島村によって一方的に見られる存在ではない。自分からも主人公を見返している。つまり主人公と対等の存在として、小説の中でピチピチと動き回っている。その結果小説の語り方は複眼的なものになる。複眼的になるということは、小説の世界に奥行きが出て来るということだ。我々一人一人の人間の目だって、片目だけでは、世の中に奥行きがあるようには見えない、二つ揃って初めて、奥行きがあるように見える。それと同じように、小説の語り方も複眼的になることによって、物語に奥行き感が生じるとともに、幅も広がるのだといえる。

ところが、「山の音」は、「雪国」で成功した複眼的な語り方を放棄して、「雪国」以前の単眼的な語り方に戻ってしまっている。そこが筆者の「退化」と断じた所以である。単眼的な語り口に戻ることで、物語の広がりや奥行きが損なわれた。物語の良し悪しは必ずしも広がりや奥行きだけで決まるものではないが、折角「雪国」で成功した複眼的な語り方を捨ててしまうというのは、少し勿体ないところがある。

語られている内容は何とも情けない事柄である。筆者はこの小説を次に述べるような理由から背徳小説と呼びたいが、もしもこんな背徳小説が戦後日本文学の最高傑作だなどということになると、戦後の日本文学は随分とケチなものに見えてくるはずだ。

この小説は、ある家族の日常を、家長である主人公の男の目を通して描いたものである。男は、妻と息子夫婦と暮らしている。男は妻に対しては殆ど人間的な感情を持っていないが、息子の妻、つまり嫁に対しては異常な執着を感じている。その執着とは性的なものだということがやがて少しずつ明らかにされてくる。つまりこの小説の基本プロットは、息子の妻に横恋慕する父親のいぎたない性的願望の物語なのである。といっても劇的な展開があるわけではなく、性的願望は男の心中に抑圧された感情として描かれるばかりだから、物語と言うよりは叙述といったほうが相応しいかもしれない。語られる事柄は背徳的なことばかりだから、これは背徳的な叙述だということになろう。

背徳的というわけは、単にこの男が息子の妻に横恋慕することだけではない。息子には妻の他に女がいて、その女が妊娠したとき、男は女のもとに押しかけて堕胎するようにとほのめかす。その時の男の気持ちには、この女に対するいたわりは微塵もない。ただ自分が厄介な事態に巻き込まれることを恐れるだけである。ということは、人間的な感情に欠けていると言わざるを得ない。その点でもこの男は背徳的なのである。

男が背徳的なら、その息子の方はもっと背徳的である。この息子は父親の{おそらく経営している}会社に勤めていることになっている。それだけでも、子の息子が十分に自立していないことを感じさせるが、妻の他に女を持ちながら、その女ともずるずるべったりで、責任ある男としての行動ができない。その結果、その女からも馬鹿にされるし、妻には愛想をつかされる。妻は、夫に女がいる間は子を産むわけにはいかないといって、妊娠した子を自分の判断だけで堕胎してしまうのである。

こういえば息子の妻は意思の強い女のように思われるが、そうではない。彼女も自立した人間ではないのだ。その証拠に、夫婦関係を立ちなおすためにも夫婦だけで暮らしたらと進められると、夫と二人だけで暮らすのが恐ろしいという。この女性は、一人の男と結婚したというよりは、その男の家に嫁入りしたという感覚であり、嫁として舅に可愛がってもらうことに問題を感ぜず、むしろそれが心地よいと感じる。そうした彼女の姿勢がまた、舅の性的な感情をそそのかすことにもつながるわけである。

男には実の娘がいるが、これもまた自立していない人間である。どういうわけか知らぬが、二人の子供を連れて嫁ぎ先を飛び出してきて、親の家に住みつくようになる。いわゆる出戻りだ。男はそのことを迷惑に感じるが、かといって娘夫婦の関係をどうしようというわけでもなく、ずるずると日を過ごすだけである。そのうちに、娘の夫が情婦と自殺未遂を図ったという記事が新聞に出る。そこで災いの及ぶのを恐れ、そそくさと離婚の手続きをする。彼女らが何故別居し、また何故彼女の夫が情夫と共に自殺しようと思ったか、それを知ったうえで事態を改善しようという気遣いは見せない。ただただ災いが我が身に及ぶことを恐れているだけだ。つまりこうした場面でも、この男は利己心の塊として、人間的な感情に欠けたものとして描かれている。

こんなわけで、この小説に出てくる人間は、主人公の男も含めて皆人間的な感情に欠けた木偶の坊のようなものたちばかりである。その木偶の坊たちを、これまた木偶の坊の男の目に映るように描いていくわけだから、この小説には救いがない。唯一救いがあるとすれば、それは息子が妊娠させた女だろう。この女は、息子の父親が押しかけてきて自分に堕胎を迫った時に、敢然としてそれに抵抗した。そして、自分は自分の意思で子どもを産むのだから、誰にもそれを邪魔することはできないと言って、男の意思を打ち砕く。そのやり取りの場面が、この小説の中で最も輝いている部分である。つまり、男とは違う価値観を持った女に、自由にものをいわせることによって、そこに複眼的な視線が生じる。その複眼的な視線が、主人公である男の視点を相対化させて、この部分に物語としての広がりとふくらみと深さを与えているように見させるのだ。

このようにこの小説は、内容には救いがないが、筆の冴えは際物といえる。文章に無駄なところがひとつもない。しかもそれらの文章は、一つ一つが尖った切っ先のように冴えわたっている。この小説は川端の作品としては非常に長く、物語性にも乏しいのだが、それでいて読者を飽きさせることがない。文章の力が人を引きずっていくためだろう。


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