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物と人間と社会:加藤周一の永井荷風論


加藤周一が「物と人間と社会」という題名で永井荷風論を展開したのは、雑誌「世界」の1960年6月号から翌年1月号にかけての紙面においてであった。時あたかも日米安保条約改定問題で日本中が政治に熱狂していた時期である。その時期に政治とは最も縁の遠いと思われていた作家について、これは最も政治的な知識人と思われていた加藤周一が論じたわけであるから、そこにはある種のアナクロニズムを感じさせるところがあった。しかしそうしたアナクロニズムは、荷風という作家自身が漂わせているものでもある。荷風を論じる者はしたがって、いつの時代に論じても、つねにアナクロニズムに陥る危険を免れないわけである。

荷風のプロフィールを紹介するにあたって、加藤は荷風の死にざまに触れることから始める。「好色で鄙吝な八一歳の老人が、誰に残すのでもない金をためたままうす汚い場末の一部屋で死んだ」と。

荷風が死んだのは、北総台地の田園地帯の一角に立っていた小さな木造の家の中であり、決してうす汚い場末の一部屋などではない。加藤がこんなふうに事実を曲げてまで荷風の死にざまを汚らしいイメージで書きたがったのは、おそらく荷風の孤老ぶりを強調したかったからだろう。この荷風論の最大の特徴は、荷風がいかに時代や社会から弧絶して生きていたかを強調することにあるようだから、その死にざまを陰惨な孤老の雰囲気に染めあげるのは、彼の生涯の締めくくりに相応しいと思ったのであろう。

たしかに荷風は時代や社会から弧絶して生きていた、しかもそれを、自分で選択した生き方として自覚的に生きた。こんな生き方をした文学者は他にはない。日本の文学者の殆どは、時代や社会を自分にとっての当然の与件として受け止め、その中に自分の身を納める空間を見出して、そこから自分の目に見えてくる世間を描いた、またはそんな世間と触れ合う自分を描いた。彼らはだから時代や社会から自由であることはできなかった。だが荷風にはそれができた。荷風は時代や社会とは常に一線を画していたから外側からそれを見ることが出来た。ということは、時代や社会の様子を覚めた目で見ることが出来たということである。

「物と人間と社会」という題名は、そんな荷風の生き方を連想させるものだ。加藤は、モノに対する荷風の執着~行きつけの食堂の同じ椅子でなければ決して座らない、偏奇館の蔵書に対する異常な執着等々~ぶりを紹介しながら、荷風が物にこだわったのは、人間の世界に住めなかったから、それらの物の世界に住んだのだと言っている。つまり、物は荷風の人間世界からの弧絶を象徴するものだったわけである。物は荷風にとって、ただに物質的な対象であるのみにとどまらず、人間や社会のあり方そのものなのだ。彼にとっては、人間も物の一つに他ならないのである。

「自分にとって女とは抱いて寝るだけのものです」と荷風は友人に語ったことがあるそうだが、この言葉は、人間を物の一つとしてとらえる荷風の生き方をよくあらわしていると加藤はいう。「荷風は女色を好んだ。女はこれに触れることが出来るし、また離れてこれを眺めることができる。その限りでは女もたとえば古陶に等しいだろう。その姿と手触りを好むのは、恋愛ではなく好色である。恋愛は人間としての女を相手にする。好色は物としての女を相手とする」というわけである。

人間や社会を物化する姿勢は文筆にも影を落とす。荷風ほど文体にこだわった作家はいない。というより「荷風は、鴎外以後、日本語の散文を彫琢して文体を作り上げることに成功したほとんどただ一人の作家であった」。そんな荷風にとって、「文章の形式への執着は、文学の中の物的な要素への執着である。執着と言って不都合ならば、信念といってもよい。文章の形式的な秩序の中に外在化された文化の歴史的な持続を、誰が荷風ほどに信じたであろうか」

このようにあらゆる面で社会から弧絶して、自分の周囲にあるものを物として対象化し、冷たい視線で観察するといった態度はどんなところから生まれてきたのだろうか。加藤はそれを荷風の父親との関係に求めている。

荷風にとって父親は絶対的な存在だった。彼は生涯父親の用意した路線に乗って生き続けたといってもよい。それなのに荷風はそんな父親の影響を束縛と感じ、それに抵抗せざるを得ない自分を感じた。荷風はまた母親にも慰安を感じることができなかった。母親は彼女自身の世界に夢中で、息子に慰安を与える存在にはならなかったのだ。こうして自分の家の中に居場所を持たないと感じた荷風は、社会全体にも居場所を感じることができないような人間になっていった。彼の弧絶はそこから始まったのだ、というわけである。

しかし人間はいくら社会から弧絶しても、一人だけでは生きていけないし、心の拠り所も持たねばならない。荷風にとってその拠り所とは、ひとつは憧れの対象としてのフランスであり、もうひとつは感情のやり場としての江戸文化であった。荷風がいま生きている日本は、西洋になろうとしてなりそこなった醜い日本である。だが徳川時代の日本は成熟した文化をもった自足した社会であった。それは荷風にとって幸いなことに、物の手触りをも感じさせてくれる。こうして荷風はますます現実社会から浮き出て、架空の文化の中に居場所を求めようとしたわけである。

このようなわけで、荷風には同時代の日本を外から眺める視点があった。しかしその視点は批判にはつながらなかったと加藤は言う。批判には、現実を変えるための理想と言うものがなければならぬ。この理想を荷風は持つことがなかった。そこが鷗外や漱石との違いだと加藤はいう。鴎外や漱石は、彼らなりに理想をもって社会の変革に参画しようとする姿勢があったが、荷風にはそんなものはどこにもなかった。彼にとって社会とは、参画するものではなく、眺めるものであり、批判するものではなく、鑑賞するものだったのだ。

そうした鑑賞には童心といったものがかかわると加藤は言う。そうした童心の例として加藤はリルケを持ちだし、「子どもの時に親しんだ物」が、いかにその人の美的意識に影響を及ぼすかについて語っているが、荷風にもこうした童心が残っていて、彼の美的センスに作用を及ぼし続けた。しかしリルケの場合には、幼い時の甘美な思い出が、大人になった後でもよい作用を及ぼし続けたのとは対照的に、荷風の場合には、子供時代の思い出は、必ずしもよい作用ばかり及ぼしたというわけにはいかなかった。「リルケは自分自身の内部に没頭し、荷風は子どもが親を観察するように社会を観察した」という具合に、荷風の場合には、父親との確執の影響がいつまでも変な作用を及ぼし続けたというのである。

こうしてみると、荷風は大人になりそこなった子どもだ、というのが加藤の荷風論のエッセンスといえそうである。

(荷風が死んだのは1959年4月30日だから、加藤のこの荷風論は、荷風の死に触発されたかたちで構想されたのだろう)


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