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永井荷風の狂歌論:江戸芸術論から


江戸芸術論中狂歌を論ずる一文の冒頭を永井荷風は次のように書いている。「一歳われ頻りに浮世絵を見る事を楽しみとせしが其の事より相関連して漸く狂歌に対する趣味をも覚ゆるやうになりぬ」と。つまり荷風は狂歌を浮世絵と関連させて見ているわけである。両者は互いに切っても切れない縁にある。それが荷風の受け取り方だった。

その理由の第一は、「浮世絵と狂歌とは絵本及摺物の板刻によりて互いに密接なる関係を有するに」至ったからであった。つまり板絵刷りの流行が両者を結びつけたと見ているわけである。板摺の確立を通じて絵本や文章の大量印刷が可能になり、ここに出版文化というものが花咲いたわけだが、その出版文化を彩るものとして、浮世絵と狂歌とがもっとも多くの需要を集めたということである。したがって浮世絵と狂歌とは出版文化の落とし児として兄弟のような間柄にあった。

以上は狂歌を浮世絵と結びつける外面的事情である。しかし外面的な事情がうまく働いたからと言って、それだけでは流行の理由を説明したことにはならない。やはりそうなるべき必然性があるはずであって、その必然性とは当該の事柄に内在するものによって説明されねばならない。

荷風はこの必然性を、と言うのは狂歌が流行した理由の必然性のことであるが、それを諧謔に求めている。狂歌が流行ったのは安永の末年から天明にかけての時代であるが、その時代の日本人はなぜか諧謔を愛した。そしてその諧謔をもたらすものとして狂歌の右に出るものがなかったと荷風は見ているのである。

ではなぜその諧謔趣味が徳川時代の半ばごろに流行ったのであるか。それは徳川時代の中頃に至って初めて、庶民が芸術の享受者となり、そればかりか創造者の位置をも占めるようになったからだ。庶民という者は基本的に率直さを好むものである。その率直さを好む傾向が、文学の領域においては諧謔趣味となって現われ、浮世絵においてはおおらかさを感じさせる人物画の流行になったのである。

俳諧が徳川時代になって流行ったのも、同じ事情による。徳川時代以前の短詩系の文学は和歌に代表されていたが、それは基本的には貴族層を享受主体としていた。貴族というのは幽玄とかもののあわれとかこむつかしいことを和歌に持ち込みたがるものである。それによって和歌は極めて窮屈なものとなる。ところが庶民はそんな窮屈さを嫌って、あっけらかんな諧謔趣味を好む。これが俳諧とか狂歌が流行ることになったいわば内在的な理由である。

狂歌のチャンピオンと言えば蜀山人だが、蜀山人が活躍したのは天明時代である。この天明時代というのは、ひとり狂歌が栄えたのみではなく、江戸諸般の文芸美術悉く燦然たる光彩を放った時代だ。つまり天明時代に至って江戸の庶民文化が一斉に花開き、その花のなかでも狂歌は、人を笑わせてくれるのみならず、浮世絵絵本に付随してそれらに付加価値を付与した。人々は刷り物絵本の狂歌を読んで笑いながらそこに描かれた図柄を楽しんだ。だから狂歌の最も理想的なあり方は、すぐれた絵に付随して、そこに笑いの要素を付け加えることにあったと言ってもよい。実際荷風は、そのような狂歌と結びついた浮世絵を見て、江戸芸術に対する審美眼を養ったと思われる。

ところが不幸なことに、この狂歌のよき伝統がその後受け継がれることなく、ほとんど死に絶えてしまった。これは非常に残念なことだ。なぜそうなってしまったのか。その理由を荷風は次のように書いている。「何が故にその跡を絶つに至れるや。これ他なし我邦固有の旧文化破壊せられて新文化の基礎遂に成らず一代の人心甚だ軽躁となり且つ驕傲無頼に走りしが為のみ」と。

荷風の鬱憤は更に続く。「今や文壇の趨勢既に万葉集古今集以来古歌固有のオン率を喜ばずまた枕詞掛言葉等邦語固有の妙所を排けこれに代ふるに各自邊土の方言と英語翻訳の口調を以てせんとす。そもそも俳諧狂歌の類は江戸太平の時を得て漢学和学の両文学渾然として融化咀嚼せられたるの結果偶然現はれ来りしもの、便ち我邦古文明円熟の一極点を示すものと見るべきなり。然ればわが現代人のこれに対して何等の愛情何等の尊敬何等の感動をも催さざるは現代社会一般の現象に徴して敢て怪しむに足らざるなり」

狂歌哀惜の念がいつの間にか同時代の批判になってしまった。


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