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荷風の女性遍歴その五


馴染を重ねたる女一覧表の十四番目山路さん子は、関根うたとの交際末期に付き合うことになり、それがもとでうたとの関係にひびが入り遂に破局したことは前に触れたとおりだ。荷風がこの女と出会ったのは昭和五年一月中のことと思われ、その後同年八月に千円で見受けし、四谷追分の播磨屋に預けていたが、翌昭和六年九月に手を切っている。関根うたと手を切ったのは同年八月末のことであるから、荷風は二人の女をほぼ同時に失ったことになる。そのうちの一人関根うたは、一度は自分の老後を託そうと思ったほど大事にしていた女だった。

そんな女を差し置いて荷風は何故山路さん子に入れ込んだのだろうか。その理由の一端を荷風自身昭和五年十二月三十一日の日記に記している。
「予が健康今年は例になく好き方にて、夏の夜を神楽坂の妓家に飲み明かしたることも屡なりき。五十二歳の老年に及びて情痴猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大いに賀すべきなり」

つまり荷風は老年になってなお自分の性欲を満足させてくれるこの女にぞっこんいかれてしまったらしいのである。関根うたは精神的には惹かれているが、なにしろ性格がまじめすぎる。だからうたを相手にしては情欲の燃え上がるのを感じることがない。実際荷風は山路さん子と出会うまでは、自分の性欲がすっかり衰えてしまったことを嘆いていたのである。それがさん子が現われるや俄然勢力を盛り返し、彼女を相手に頻繁に性交するようになったばかりか、その関係をごまかそうとする意図もあったが、うたとの性交も復活した。

断腸亭日常の謎の一つに、日付の上に●を付けるというのがあるが、これは大方の推測ではその日に女と性交渉をもったことをあらわしているらしい。その印が初めて登場するのは昭和四年五月四日のことであるが、昭和五年にはいるとその数がぐんと多くなる。それは荷風が山路さん子と性交渉を持つようになったことを反映しているとも考えられなくはない。いずれにしても荷風は、山路さん子が自分を性的に満足させてくれることに惹かれたのだと考えられる。

この女にはしかし情夫があった。その情夫のことを荷風は昭和六年二月九日の日記に次のように書いている。
「鍛冶橋外秘密探偵岩井三郎事務所を訪ひ、薗香の客なる伊藤某といふ者の住所職業探索のことを依頼す、伊藤某は大木戸待合七福の女房と関係ある者のよし、去年来妓園香を予に奪はれたりと思ひ過り、之を遺恨に思ひ密に余が身辺に危害を与へんと企てゐる由、注意するものありし故、万一の事を慮り其身分職業をたしかめ置かむと欲するなり」

園香とはさん子の芸名である。荷風はこの三日後(二月十二日)に園香と会っている。
「神楽坂中河亭に飲む、園香大木戸より来る、されど歓情既に当初相見し時の如くならず、悲しむべきなり・・・余この妓のためには散財も少なからざる次第なれど、久しく廃絶せし創作の感興再び起来りて、此頃偶然悪夢紫陽花など題せし短編小説をものし得たるはこの妓に逢ひしが為なり、一得あれば一失あるは人生の常なれば致方もなし」

荷風の彼女との関係はこれ以後次第によそよそしくなっていったようである。そして破局はその年の九月に訪れた。あたかもうたが荷風のもとを去った日と前後して。

一覧表中十五番目は黒澤きみである。市内処々の待合に出入りする私娼で、昭和八年暮より九年中にかけて毎月五十円で三・四回あったとある。この女のことを荷風は昭和八年十一月十七日の日記に次のように記している。
「年廿五六、閨中秘儀絶妙、而も欲心なく頗廉価なり」
また昭和九年二月二十七日の日記には次のようにある。
「此女実に希代の婬婦にて男二人を左右にねかし変る変るに其身を弄ばせてよろこぶことなどあり」

こんな具合で荷風はこの女の淫乱ぶりに強い興味を覚えたのであったが、彼女を材料に小説を書いてみたいという気持ちもあって付き合い続けた。一度彼女が私娼稼業から身を引いて田舎で養生したいと漏らした時には、強く引き留めたほどである。

結局荷風はこの女を材料に使って名作日かげの花を書き上げることができた。

一覧表の最後の番号十六番目にあてられているのは渡辺美代である。これは渋谷宮下町に住み、夫婦二人づれにて待合に来り秘儀を見せる、とあり、昭和九年暮より十年秋まで毎月五十円をやり、折々出会ひたる女なり、とある。これにあるようにこの女は夫婦連れで荷風の前に現われ、荷風に秘事を披露して喜ばせていた。

最初は女だけと会っていたが、そのうち女が情夫を連れて来るようになった。女のほうから荷風に見せにきたのか、それとも情夫のことを聞いた荷風が連れて来るように命じたのか、仔細はわからない。しかし荷風はこの夫婦連れをセットとして気に入った。昭和十年四月五日の日記には次のような記事が見える。
「美代子と逢ふべき日なれば、その刻限に烏森の満佐子屋に往きて待つほどもなく、美津子は其の同棲せる情夫を伴ひて来れり。会社員とも見ゆる小男なり。美津子、この男と余とを左右に寝かし、五体綿の如くなるまで淫楽に耽らんといふなり。七時頃より九時過ぎまで遊び、千疋屋に茶を喫して別る」
これからするに、荷風はこの夫婦との間に変態ともいうべき快楽を楽しんだようである。

また八月三日の記事には次のようにある。
「美代子及び其情人渡辺生と烏森の芳中に会す。奇事百出。記すること能はざるを憾しむ」
これもまた変態性欲を満足させてくれるようなことをこの夫婦が荷風に示し、また一緒に遊んだものと思える。それが他人に口外をはばかられるほどの奇事だと言うのだが、そのありさまは想像する以外にない。

しかし荷風もこの変態性欲にも飽きたらしく、昭和十年の秋ごろいったん手を切った。荷風は自分のなかにもはや色欲を感じなくなったと言い、その性欲の減退がこの夫婦と手を切った理由のように仄めかしているが、例の●印はその後も引き続き見られるので、それが性交を意味する符合だとすれば、荷風のこの言い方は人を惑わすものと言わねばなるまい。

なおこの夫婦とは半年ばかりで付き合いを復活させているが、その際には情夫だけと会うことも多くなった。荷風はその頃から墨東奇譚の執筆にとりかかっていたらしく、その準備のために玉ノ井へ足を向ける際の案内人としてこの情夫を使ったらしいのだ。実際荷風は墨東奇譚をこの情夫に贈呈してもいる。

以上が断腸亭日乗昭和十一年一月三十日の記事にある「帰朝以来馴染を重ねたる女」十六人の概要である。しかし荷風はこの他にも多くの女とかかわりを持った。そのなかで特筆しておかねばならぬのは、荷風が自分が出会った女のなかで、大竹とみと並んで最も美しかったと書いている川合澄子のことである。

川合澄子は女優であった。一覧表に記された女がいずれもいわゆる賤業婦であったのに対して、この澄子だけは性を売り物にはしていない。そこが決定的に違う。日記を読んでいても、この女性を荷風が自分の女として弄んだ形跡は見えない。だからおそらくかなり対等の形で付き合い、時にはセックスをすることもあったかしれぬが、荷風の女に甘んじるようなものではなかったようだ。

この女のことを荷風は大正十五年十月七日の日記に次のように書いている。
「予が知友等は何かとお澄とわけあるやうに噂すれど、今日までのところにてはさる仔細はなし。予は元来新しき女芸人を好まず。活動写真を始めとして現代の新しき演芸に関係する女芸人とは、単純なる交際をすべし」
実際荷風はこの女とは一定の距離を置き、膠のように離れがたい関係にはならなかった。澄子と出会ってすぐ、荷風は古田ひさと懇ろになっているのである。

しかしこの澄子との交際はその後も細々ながら長く続き、昭和十九年には荷風のもとを訪ねてきて疎開の相談などをしている。荷風とかかわりあった女のなかでは変わり種というべきだろう。


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