日本語と日本文化


荷風の女性遍歴その二


馴染を重ねたる女一覧表五番目の女は米田みよといって、新橋花家の抱え芸者であった。この芸者を荷風は大正四年十二月の大晦日に五百円で親元身請けして、翌年の正月から八月まで浅草代地河岸の家に囲い置き、その後神楽坂に松園という待合を営ませること三ヶ月にして手を切ったという。荷風がこの女と懇ろとなったのは八重次と結婚生活の最中のことであり、この浮気がもとで八重次が荷風のもとを去ったとされている。しかし八重次はその後も荷風と会っており、そのことで荷風は焼け棒杭に火がついたと言って、照れている。

米田みよと別れた理由はよくわかっていないが、別れたその年の十二月の大晦日に荷風は次の女である神楽坂照武蔵の抱え芸者本名中村ふさをやはり親元身請けした。身請け金は三百円であった。この親元身請けというのは、旦那となる客が親に代わって芸者の借金を肩代わりするというもので、通常の身請けより安くすむ利点がある。通常の身請けの場合残存利益や祝儀の支払いも求められるが、親元が身請けする場合にはその必要がなかったからである。金にうるさい荷風はこの精度を利用して安上がりに芸者を身請けしたというわけである。

この中村ふさは「お房」という名で断腸亭日乗に登場する。大正七年三月二日の条に、
「夜お房を伴ひ物買ひにと四谷に赴く」というのが初出だが、そのわずか二十日後には荷風のもとを去っている。そこに八重次が荷風を訪れたりして、そのさらに二日後の三月二十六日の条には次のような記事がある。
「お房四谷より君枝と名乗りて再び左褄取ることになりしとて、菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。お房もと牛込照武蔵の賎妓なりしが、余病来独居甚不便なれば、女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いささかの借金支払ひやりて、家に連れ来りしなり。然るところいろいろ面倒なる事のみ煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片付きて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ」

女中代わりに使いながら床を共にしたのは言うまでもない。荷風はこの女が気に入っていたと見えて、別れた後も独り寝の淋しい折に偏奇館に呼んで語り合ったりしている。だがこの女性はいつの頃やら発狂し松沢病院で死んだと荷風は一覧表に書いている。また昭和五年九月二十五日の条には、たまたま出会った昔馴染の女給からお房の噂を聞いたとして、次のように記している。
「女給の語るところを聞くに其頃余が家に召使ひたりし阿房といふ女四谷の妓となりゐたりしが数年前鳥目となり続いて発狂し、目下駒沢村の瘋癲病院に幽閉せられつつありと云ふ」

一覧表七番目の女は今村栄である。この女性は大正十二年の震災後十月から翌年十一月まで麻布の偏奇館に置いたと荷風は一覧表に記しているが、その一年余りは荷風にとって非常に楽しいものだったに違いない。日記を読むと、この期間の荷風は今村栄との生活に無上の喜びを感じていたことが伝わってくる。

栄と知り合ったのは震災が縁であった。荷風は震災で焼け出されて困っていた友人の平沢一家を偏奇館に同居させたが、その平沢夫妻を通じて栄の存在を知った。そして夫妻に勧められるままに栄と会い、その美貌に惚れて彼女を平沢夫妻共々偏奇館に同居させたのである。

荷風は当初栄を今村令嬢などとよそよそしく呼んでいたが、そのうち突然お栄と呼び捨てにする。その日が栄と情交を結んだ日なのであろう。そのすぐ後に荷風は栄について詳しく日記に記している。
「今村お栄は今年二十五歳なりといふ。実父は故ありて家を別にし房州に在り、実母は芸者にてお栄を生みし頃既に行方不明なりし由。お栄は父方の祖母に引き取られ虎ノ門の女学館に学び、一たび貿易商に嫁し子まで設けしが、離婚して再び祖母の家に帰りて今日に至りしなり・・・お栄はもともと芸者の児にて下町に住みたれば言語風俗も芸者そのままなり。此夜薄暗き蝋燭の光に其姿は日頃にまさりて妖艶に見え、江戸風の瓜実顔に後れ毛のたれかかりたりしさま、錦絵ならば国貞か英泉の画美人といふところなり。お栄この月十日頃、平沢生と共にわが家に来りてより朝夕食事を共にし、折々地震の来る毎に手を取り把り扶けて庭に出るなど、俄かに美しき妹か、又はわかき恋人をかくまひしが如き心地せられ、野心漸く勃然たり。エドモン・ジャルーの小説 Incertaine の記事も思合されてこの後のなりゆき測り難し」

お栄に対する荷風の執着ぶりがよくうかがえる一文である。この時荷風は四十四歳の男盛りであった。女に執着するのも無理はない。

荷風は平澤夫妻と齟齬することがあって、平沢夫妻が偏奇館を出た時にお栄もいったん出て行った。しかしお栄をあきらめきれない荷風は手を尽くして彼女を再び偏奇館に迎える。その後約一年間荷風はお栄との偏奇館での生活を営む。この年の十二月十二日の条には
「夜小星を伴ひ母上を訪ふ」とあるから、荷風はお栄と結婚することまで考えていたようなのだ。

しかしお栄との偏奇館での生活は長続きしなかった。別れ話はお栄の方から出たと荷風は日記にほのめかしている。十一月十一日の次の記事がそれである。
「小星今年夏の頃より病あり、今に癒えず、殊に生来多病にて永く箒を秉るに堪えされば、一時家に還りて養生したき由。酒井君を介して申出でぬ。熟談してその請ふにまかせ、祖母の家に還らしむ。お栄酒井君の周旋にて予が家に来りしは、恰去年の今月今日なり。其日を同じくして去る。奇ならずや」

お栄が去った理由はほかにもあったようだ。その一つは金銭がらみだったらしい。荷風はそのことを十一月二十五日の条に次のようにほのめかしている。
「お栄わが家にありし時金銭を私せし事露見し、酒井氏談判に及び、幸いにして損害を償ひ得たり」

金にうるさい荷風のこと。たとえ妾であっても自分の金をくすねることを許さない。

八番目は野中直である。この女は神田錦町に住む私娼だったが、大正十四年中に赤坂新町に囲っていたと一覧表のコメントにある。この女のことは大正十四年十月十二日の条に出てくるだけである。
「法華宗会式の当日なれば夕暮より町々到るところ万灯の光太鼓の響盛なり。赤坂新町の野中といふ女を伴ひ神楽坂田原屋に飲む」

 昭和九年五月四日の条には彼女の住所氏名が記されているが、これはどういうつもりなのか、よくわからない。




  
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