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井伏鱒二を読む |
大江健三郎がノーベル文学賞をとったとき、この賞に本当にふさわしいのは安部公房と井伏鱒二のほうだと言ったことがある。かれが井伏の名をあげたのは、「黒い雨」を念頭にしてのことだったと思われる。「黒い雨」は、原爆災害の深刻さについて、世界ではじめて文学的に表現したものだった。自分自身も広島・長崎の原爆災害に深い関心を寄せていた大江は、原爆災害の実情を世界中に向けて発信できるものとして、井伏のこの作品を高く評価し、それがあの発言になったのだと思う。じっさい、「黒い雨」を除いては、井伏が偉大な作家だといえるような業績はみあたらない。「山椒魚」など動物をテーマにした短編小説や「ジョン万次郎漂流記」や「漂民宇三郎」など漂流物をテーマにした作品を書いた風変わりな作家という位置づけで終わったと思う。 それほど「黒い雨」の持つ文学上の意義は大きい。井伏がこれを雑誌に連載し始めたのは昭和40年1月のこと(当初は「姪の結婚」と題していた)で、翌年の9月に完了した。原稿用紙500枚ほどの長さの小説としては、結構手間をかけている。また、書き始めたのは、敗戦後20年近くたってのことだ。その20年の間に、原爆災害についての慎重な調査をしたものと思われる。原爆災害についての日本国内の受け止め方は複雑で、国民一体となった原爆災害検証の場があるとはいえなかった。政治的な対立につきまとわれてもいた。そんな中で井伏は、なるべく公正な立場から、しかも文学作品として、原爆災害をテーマにした小説を書くことにとりかかったわけだ。 この小説が成功したのは、被爆者に実体験を語らせるという方法をとったためであろう。しかも、一人ではなく、複数の人物に自らの被爆体験を語らせている。そのため、体験の生々しさを肌で感じることができ、また、複数の人物の語ることを聞くことで、事態の立体的な把握ができるようになっている。こういう小説の語り方は、それまでなかったわけではないが、しかし珍しいやり方であり、そこに読者は新鮮さを感じたであろう。そういう小説自体のもつ新鮮さと、題材の特別な性質があいまって、この小説を稀有なものにしている。大江は、そうした稀有な特質に、世界文学の傑作とする所以を見たのであろう。 井伏はもともと、ストーリーテラーというよりは、私小説的な作風に近い資質をもっていた。ここで私小説的というのは、作り物としての物語をつづるのではなく、自分の印象をそれらしく着色して語るというものである。かれは動物を描くのが好きで、初期の短編小説には動物をテーマにしたものが目に付く。そうした短編小説は、ストーリーを語るのではなく、作家の印象を述べるというやり方をとっている。その印象を述べるやり方が、日本独自の私小説の伝統を踏まえているのだ。大江は井伏と安部の名を並列したが、この二人には作風に決定的な相違がある。安部はストーリーテラーであり、井伏は私小説の伝統の上に立っている。 井伏の出世作は、「ジョン万次郎漂流記」である。これは出来てまもない直木賞をとったことでわかるように、文芸作品というより、大衆向けのエンタメ性の強い作品として受け取られた。私小説的な作品がエンタメ性を帯びるというのは、珍しい現象と言える。エンタメ的な要素は、あまり無自覚に使うとだらけがちになる。「駅前旅館」などは、かなりだらけた作品である。そういうだらけに陥らずに、エンタメ性のある作品を書くというのは、なかなか難しいように思われる。 井伏は、大江や安部のように、社会的な問題意識を表面に出すタイプではない。そういうモチーフを避けているように見える。「黒い雨」のような作品でも、原爆を落としたものへの批判意識は表に出しているが、あまり深入りすることは避けている。原爆災害の実情を淡々と描写するという禁欲的な態度をとっている。禁欲的なというのは、作家自身の意見を表に出さない態度のことだ。 井伏の文章が、肩の凝らない軽さのようなものを感じさせるのは、かれが偏った意見に陥ることがないからだろう。それは逆の見方をすれば、政治的・社会的に無自覚ということになるかもしれない。じっさい井伏は、政治的に振舞ったことがない。一介の文学書生として振る舞い続けた。 「黒い雨」を書かなかったら井伏はマイナーな作家としてやがて忘れられる運命に陥ったであろう。「黒い雨」は誰でも書けるようなものではない。それを書いたというだけで、井伏は偉大な作家の仲間入りができた。 井伏鱒二初期の短編小説 山椒魚ほか 井伏鱒二戦中時の短編小説 「みつぎもの」ほか 井伏鱒二戦後の短編小説 「遥拝隊長」ほか 井伏鱒二晩年の随筆 「猫」ほか 井伏鱒二晩年の短編小説 「無心状」ほか 井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」を読む 井伏鱒二「多甚古村」を読む 井伏鱒二「本日休診」を読む 井伏鱒二「漂民宇三郎」を読む 井伏鱒二「駅前旅館」 番頭稼業を番頭が語る 井伏鱒二「黒い雨」を読む 広島原爆災害地理 井伏鱒二「黒い雨」を読む 安芸門徒の葬儀 井伏鱒二「黒い雨」を読む |
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