日本語と日本文化


千年の愉楽:中上健次


「千年の愉楽」もまた紀州の路地を舞台にしているが、前二作(岬、枯木灘)とは全く違う世界を描いている。前二作は、路地を舞台にして展開する家族の因縁のようなものを、日本文学の伝統である私小説的な文体で、リアリスティックに描いたものだが、この小説は全く架空の物語の世界を描く。「千年の愉楽」という題名からして神秘的な雰囲気を感じさせるが、実際この小説の主人公である「オリュウノオバ」は、百年も千年も生きたということになっている。百年も千年も生きていれば、それこそありとあらゆる経験をしただろうし、その経験の中には普通人の理解を超えたようなシュールなものもあっただろう。この小説はそうしたシュールな出来事を、きわめて肉感的と形容できるような、不思議な文体で描いている。一読してわかるように、これは日本の文学の伝統を大きくはみ出した、非常にユニークな作品と言うことができよう。

まず文体。この作品は日本文学の伝統に全く新しい文体の可能性をつけ加えたといえるほどにユニークな文体だ。たとえば次のような文章、
「生きる事の次に死ぬ事があるのか、死ぬ事の次に生きる事があるのか、とオリュウノオバは溜息をつき、半蔵の気遅れした顔を思い出してからやっと他の若集の誰よりも男振りの勝ったどこから見ても張りつめた男の性そのものの半蔵が、一つ傷をつけられるとそこから腐り萎れはじめる青い茎のように崩れてしまうのではないか、半蔵が大きな猛ったものの気を刺激してもてあそばれ腹を裂かれ内蔵をわしづかみにされて風に感応する髪も女に吸われた唇も腕ももとの形が分からないほどに壊されて食いちぎられるのではないか、とオリュウノオバは有り得ない事を想像した。」

これは有り得ない事を想像しているものとして書かれた文章なのだが、有り得ないこととはそもそも想像の産物だと前提しても、その想像がおどろおどろしい形をとって、有り得ないことに不思議な実在感を付与する。この小説の中の文体は、そうした両義性に充ちている一方、多少文法を逸脱してもものごとの確信に迫ろうとする意思に満ちている。その確信は理屈よりも感情というか体験というか、身体感覚に基づいたものである。身体感覚を重んじた文章によくあるように、中上のこの小説の文体も非常に息の長い表現を多用している。

文体以上に人の意表をつくのは小説の構造である。この小説は路地を舞台に繰り広げられる六人の若者についての物語であるが、六人の若者をめぐる六つの物語の相互にはほとんど関連はない。ただオリュウノオバという産婆がそれら六人の若者の生れてくるにあたって、母親の裸の腹から生れてきたばかりの裸の赤ん坊だった彼らを取り上げてやったという共通点があるに過ぎない。この六人はいづれも中本の血を受けたということになっているが、中本の血の特徴はどんな女でも虜になってしまうほどの美貌と、若くして死ぬ運命を背負っているという点だった。どちらにしても彼らのそれぞれの物語相互には外見上のつながりはない。時間の前後も明らかでないのは、オリュウノオバがすでに百年も千年も生きていたということに現れている。この小説は時間を超越した物語なのだ。

時間を超越しているから、出来事の前後関係もメチャクチャになりがちだ。六つ目の物語である「カンナカムイの罠」は、オリュウノオバの通夜から始まるのだが、それがどういうわけか突然オリュウノオバの若い頃にセットバックし、オリュウノオバが十五歳の若者だった龍男の色気に負けて、達男を自分の布団に導き入れ、四回も性交を楽しんだあげく、亭主の礼如さんに現場を見られてふてくされるのであるが、それが物語のほかのどの部分と反響しあっているのかは明示されない。そういえばこんなこともあったという具合に、いきなり物語の叙述に割り込んでくるのである。こういう手法はフォークナーが「響きと怒り」で採用して大きな話題になったところだが、中上はそれを意識しているようである。

性交といえば、この小説は性交の場面で満ち溢れている。あたかも性交の愉楽を描くことがこの小説の最大の目的だと言わんばかりである。中上の性交の描写は非常に手が込んでいて、荷風散人も顔負けするような迫力がある。たとえば次のような一文、

「動いてもはずれる事のない深さまで入れて、腰をあおり、女の腰と尻に当てた手で圧しつける。女は三好の優しさに一時に昂ったように乳房に顔をつけて乳首を強く弱く腰のあおりにあわせて吸う三好の唇をもとめ、それが叶わないと知ると、三好の肩を強く吸い歯を立てようとする。三好は長く楽しみたかった。最初あんなにも小さかった女陰がゆっくり時間をかけて細かいひだのひとつひとつを圧しひろげてやると、くしゃくしゃにたたんでいた千代紙が広げられるように女陰は石くれの男根そのものが全部入ってもまだ足りないというように充血してふくれ上り、欲深になって突いてほしい、乱暴に入り込んでくるものが欲しいと駄々をこね、固いものが入り切ると身をそらして苦しみを耐えるように快楽に耐え、なお激しく腰を上下にあおると力なく果てる。女は熱を出した子供のように桃色の肌をしていた」。

日本の文学史上例のない性交の迫真な描写である。こういう光景を何気なく書ける中上は、おそらく女とやることを好んだのだろう。

この小説は「路地」を舞台にしており、オリュウノオバを中心にして路地に生きるものたちの人間模様が描かれるわけだが、時には路地と外部世界の接点が触れられることもある。そういう折には暴力が現れる。路地と外部世界とは暴力という摩擦現象抜きに接しあうことができないとでもいうように。中でも、明治政府が四民平等の布告を発したときのことが印象深く触れられる。

「その政令が交付された時、口にしている当人らの誰も意味をわからずバンバイ、バンバイと両手を挙げたと言った」。だが路地の人たちが解放されたと喜んだのもつかの間、路地の近隣の百姓たちは、手にクワやスキ、竹槍を持って松明をかざし路地の家々を襲った。「日本中のあらゆるところで太政官の政令の公布の直後に近隣の百姓に隅の方にひとかたまりになって建ち並んだ小屋同然の家々が襲われ、火をつけられ、備後の方では山に逃げ込んだ者らが竹槍を持った百姓らに猿を獲るように追い立てられ突き刺されて十人ほどが死んだ」

こんな記憶が残っているから路地の者は自分たちだけの世界に閉じこもり、そこで男は女を見つけ、女は男を見つけるにしても、もともと狭い範囲内のことであるから、血は限りなく入り混じって、近親相姦に近いありさまを呈するにいたるわけであろう。この小説では近親相姦はテーマになっていないが、先行する二作品では、それが最も重いテーマになっている。

本土の路地と同じような境遇にあるものとして、この小説はアイヌのコタンを取り上げる。最終章の「カンナカムイの罠」はそんな差別されるものとしてのアイヌを描いているわけで、そこには路地の若者たる達男の分身としてアイヌの青年が登場し、死んだ達男の身代わりとしてオリュウノオバを慰めにやってくる。その若者から達男の死を聞かされたオリュウノオバは、こんなふうにつぶやくのだ。

「祥月命日をつらぬくまま中本の高貴な澱んだ血が仏の罰を一つ消したが、オリュウノオバは雷の鳴った夜、ふくろうの鳴いた夜に生れた達男らしい人生だと胸の中でつぶやいた」




  
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