日本語と日本文化


高橋源一郎「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」


高橋源一郎を読んでみようという気になったのは、たしか内田樹の評論「村上春樹にご用心」を読んだのがきっかけだったような気がする。内田が村上と高橋を並べて、高橋もまたたいした作家のような言い方をするものだから、気になったのが始まりだ。そのうち、高橋本人の書いた文章を新聞で読んで、面白い人間のようだなと感心した。そこで、本格的な文章を読んでみる次第になったのだと思う。

手始めに選んだのは、「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」という表題の短編集だ。宮沢賢治は筆者の最も好きな文学者なので、その賢治を題材にして、気になっている作家がどんな文章を書いているのか、気になったのだ。

早速アマゾンで取り寄せる。本文545ページもある分厚い本だ。そこに24編の短編小説が収められている。目次を読むとすべて、ミヤザワケンジの作品の表題と同じものが並んである。

たとえば冒頭は「オッペルと象」だ。これは女に出て行かれた男が、女の代わりの同居人として象を飼う話だ。だけど象はすぐ警察に没収されてしまう。男は次の同居人には何を選んだかよいか、いろいろ思案する、というものだ。

二作目は「革トランク」 これは小さな娘とパパとの対話だ。娘は話の切れ目で必ず、(あしたね、世界が終るの)という。

このようにこの短編集は、個々の小説の題名にも、それらを集大成した総題にも、宮沢賢治を援用しているのだが、個々の小説は必ずしも、宮沢賢治の小説と関連があるわけではないし、総題にある宮沢賢治の名前が、この本とどんな関係があるのか、これもまた必ずしも明確ではない。

もっとも、原作との関連性を、ちょっぴりくらいなら、感じさせる作品もないわけではない。たとえば「セロ弾きのゴーシェ」だ。この作品の中で、ゴーシェは次のように描写されている。

「ゴーシェはセロをひく。それがゴーシェの存在意義だ・・・ゴーシェの感情はセロによって表現される・・・ゴーシェがどうしたいのか、それはセロを聴いていればわかる。小便をしたいのか、歯が痛いのか、小泉内閣には少しも期待などしていないのか。すべてはセロを聴いてみればわかるのである」

こんなわけで、読者は面食らったり、あきれたり、ニンマリさせられたりするのだが、読み始めると、それなりに面白い。少なくとも途中で放り出したくならないように、作られている。だから高橋源一郎という作家は、それなりに才能があるのだろうと感じさせる。

圧巻は「ガドルフの夢」 これは永遠に覚めない夢の話だ。嫌な夢をみて目が覚めると、前に見た夢と全く同じ情景が繰り返される。それから目覚めるとまた同じ夢が繰り返される。それが延々に繰り返されるという悪夢の物語だ。小説に出てくる人物も、それを読んでいる読者も、その夢のトリックから逃れるすべがない。小説が続いている限り、主人公も読者も夢から脱出することはできないのだ。

高橋源一郎という作家は、このように、小細工のうまい作家だと言える。読者は作家の小細工に引っかけられていながら、小説を読んでいる限りでは、自分がその小細工にはめられた被害者なのだとは、毛頭感じないようにできている。

つまり、うまいのだ。

少なくとも、時間をつぶす手段としては、もっとも高級な細工だといえる。


    

  
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