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賭:安部公房の歪曲空間譚


安部公房の小説世界は、デビューしたてのしょっぱなから独特の空間感覚に彩られていた。たとえば「壁」では、現実界と異界とが壁一つを隔てて接しあっていたし、「水中都市」では現実界としての日常空間が異界としての水中空間に突然変化するといった具合だ。そうした安部独特の空間感覚が本格的に表明されたのが1960年の短編小説「賭」だ。この小説の中で安部は、日常空間の中に織り込まれた異界空間を描いている。その空間は日常空間の隙間をふさぐようにして忍び込んだ空間であるとされるから、イメージとしては歪曲しているように受け取れる。それを今流行の異次元空間といわずに歪曲空間というべきなのは、そのためである。

この小説の中の空間が現実の空間と違っているらしいことを、読者は冒頭で暗示される。ある会社のビルの改築を依頼されたらしい建築家が、クライアントから要望されたのは、二階と三階の部屋を隣り合わせにして欲しいというものだった。その意味が理解できない建築家は、現場を自分の目で見ようと出かけてゆく。そしてそこで、ビルの構造がかなりゆがんでいるらしいことを見出す。その結果この建築家は、「三階の部屋が、六階の部屋と壁を接していようと、また階段を降りて上階に達することになっていようと、少しも意に介さないまでになっていた」。つまり日常の空間とは全く違った空間、それは歪曲しているとも、浸透しあっているとも形容できる、不思議な空間なのだった。

安部はこの小説の中で、そうした空間の歪曲性をリアルには描いていない。空間の歪曲性とはもともとシュール・リアルなものだという自覚があるからだろう。その代わりに安部が読者に提示するのはある特殊な空間についてのヒントである。その空間の外形は一つのビルであって、そのビルの中には当然多くの部屋がある。それらの部屋は社長室を中心にして、すべての部屋が社長室と直接結ばれていなければならない。そういうイメージを安部は提示するのだ。そのイメージで読者はどのような具体的な空間を思い浮かべることができるだろうか。それは読者一人一人のイマジネーション能力にゆだねたい。ただ自分としては、次のようにだけ言っておく。そう安部は念を押したいかのように、主人公の建築家に次のように言わせるのだ。

「そんな建物の中では、船酔いの何倍ものビル酔いにかかり、とうてい仕事どころではないだろう。そこで私は、ありったけの智慧をふりしぼり、システムの函数として社長室が描く軌跡を求め、それに合わせたトンネルを、うねうねと建物中に這いまわらせて、状況に応じた社長室の位置や方向を、電子頭脳に選ばせることで解決した、この機構については、私なりに自信もあり、また誇りにも思っている・・・(が)、与えられた軌跡を、ほんのわずかでも外れることを要求したような場合、社長室のドアの外に、私の設計にはなかった、何かとんでもない場所が現われたとしても、それは私のあずかり知らぬことなのである。たとえばそこが、とつぜん無人島の真っ只中だったというような場合があったとしても・・・」

この無人島に該当するような不思議な空間を、安部はこの小説の中では示していない。安部がそれを示すのは別の小説においてだ。「砂の女」では、日常世界の端っこに存在するちっぽけな非日常空間を、あり地獄を思わせる砂の穴の中の空間として示したし、「密会」では、日常世界の真っ只中に存在する巨大な病院とそれを取り囲む街のような空間が、網の目のように張り巡らされた迷路で結ばれているイメージを提示した。それらを通じて安部は、何を表現したかったのか。空間について自分がもつコンプレックスのようなものか、あるいは単にマニアックな空間へのこだわりなのか。

コンプレックスということについては、この小説の主人公の建築家が、自分の潜在意識について、他人から指摘される場面が出てくる。「つまり君は、自分の潜在意識の貧しさを気遣っているんだね? まったくいらぬ気遣いだよ。潜在意識というやつは、無限の鉱脈なんだ。掘れば掘るほど、あらたな宝がわきだしてくる・・・それとも君は、もしかして・・・エディプス・コンプレックスがあるんじゃないのかな」

エディプス・コンプレックスと空間の歪曲感覚とが深い結びつきをもつとは思えないので、この部分は安部のたんなる思いつきか、ことば遊びの類だと思う。安部は時たまことば遊びを弄することで、ものごとの説明をしたつもりになるところがある。


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