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人魚伝:安部公房の異種間結婚譚


安部公房の短編小説「人魚伝」は、異種間結婚をテーマにした作品だ。異種間結婚というのは、人間がほかの動物との間で結婚したり愛し合ったりする物語で、世界中に分布している。日本にも「鶴の恩返し」をはじめとして、多くの伝説や逸話が流布している。それらの話は、動物が何らかの事情で人間との間の交流を求め、人間の姿となって人間に近づき、人間と結婚するのだが、いつかは真実を告白して動物の姿にもどり、異界へと去ってゆくというパターンのものが多い。ところが安部のこの小説の場合には、人間が人魚をその姿のまま愛してしまい、幸福なひとときを過ごした後、その人魚を殺してしまうという不幸な結末になっている。その辺が、安部独特の話法が働いているところだ。

愛する側の人間は男で、愛される側の人魚は上半身が人間の女で下半身が魚である。しかして全身がグリーンの色をしている。男はその人魚を海の中で見つけ、たちまち恋に陥ってしまう。恋する男は人魚と一緒に暮したいと思い、彼女を自分のアパートの浴槽の中に住まわせることにする。飼うのではなく、住まわせるというのは、彼らの関係が人間とペットの間の関係ではなく、恋人同士の関係であるからだ。だが相思相愛というわけではない。男が一方的に人魚を愛するという片務的な関係だ。片務的ということでは、男は人魚に対して自分の愛を一方的にささげるばかりでなく、自分の身体を彼女の餌としてささげもするのだ。つまり心身ともに自分自身を人魚に与えるわけだ。もっとも、男は自分の身体を人魚に食われはするが、そのことによって死んだり、減ったりするわけではない。それどころか、食い残された自分の体の一部から自分自身が再生して、それが何人にも増殖してしまうのだ。

ここで小説の中には、死と再生という別のテーマが紛れ込んでくる。男は毎朝、裸で床の上に横たわっている自分を見出す。裸で寝たわけではないのに、なぜこうなるのか不思議に思う。もしかしたら、自分が寝ている間に人魚が戯れて自分を裸にしたのかもしれないなどと思ったりするが、どうも釈然としない。だがそのうち、自分と瓜二つの男が部屋の中にいるのを見出し、それがきっかけとなって次第に謎が解けてくる。自分が寝ている間に人魚は自分を食っていたのだ。食われた自分は一旦は死ぬのだが、食い残された自分の体の一部から自分が再生し、それが裸のままで床に横たわっていたらしいのである。つまり自分は、自分の知らない間に、死と再生のプロセスを繰り返していたに違いないのだ。自分と瓜二つの男は、おそらく食い残された自分の部品が二つあって、そこからこの自分と、あの自分の分身とが生まれきたに違いないのだ。

男は、自分が二人いるのは都合が悪いと考え、もう一人の自分を殺そうとしたりする。自分が自分を殺すのだから、それは殺人とはいえまい。自殺なのだから罪にはならないだろうという理屈だ。しかし、この調子だと、自分の分身がきりも無く沢山再生されるかもしれない。そう思うと男はぞっとするのだ。そこで人魚を殺す決意をする。人魚の目玉をつぶすと、人魚は日に日に乾燥し、十日ほどするとミイラになってしまうのだ。こうして物語には一応のケリがつくのだが、男はその後遺症として緑色に対するコンプレックス(緑色過敏症)に陥るのである。この小説の書き出しは、自分がなぜ緑色過敏症になったかについての言い訳から始まるのである。

話を人魚の身体のことに戻すと、この人魚は上半身は人間の女だが、肌の色は緑色だし、胸のふくらみはあっても乳首はなく、また胎性の生き物でないから臍もない。下半身はまるまるの魚だから、女性とはいえ人間的な女性器はついていない。ただ排卵用の穴がついているだけだ。だからこの人魚との間で男女の普通の愛の交わりは期待できない。男はその代替として人魚の目に接吻することで満足するのだ。この辺は、人間の男と人間に変身した動物の女とが人間らしい愛の交わりをする普通の異種間結婚譚とは大きく異なるところだ。安部はなぜ、そんなふうな話をする気になったのか。もしこの小説が愛をテーマにしたものだとすれば、いささか異様な設定というべきだろう。

安部はこの小説を、愛をテーマにしたものとは考えていなかったようだ。その手がかりは、小説の最後の段落に出てくる次の文章にある。「ぼくは彼女を自主的に選び、征服したつもりだった。ところが真相は、ぜんぜんその逆で、ぼくはむしろ食肉用家畜として彼女にとらえられ、飼育されていたにすぎなかったのである。いや、考えてみると、それも実は大したことではなかったのかもしれない。どういったらいいのか・・・つまり・・・ぼくが彼女を殺したのは、ほかでもない家畜の運命からのがれるためだったのに、その結果手に入れたものが、けっきょく飼い主を失った家畜の運命にすぎなかったという・・・」

どうやら安部は、同時代の人間は、自分自身の主人公ではありえなくなっているという、深刻な問題意識をこの小説のなかに盛り込んでいるらしく聞こえる。自分が自分の主人公でいられないというのは、恋に破れることよりつらいことなのか、それはよくわからないが、しかし気にしなくてもすむような、軽い問題でないことはたしかだろう。

安部はこの、自分が自分の運命の主人公になれず、運命の不条理さに飲み込まれ、流されてゆくことの恐ろしさを、「砂の女」のなかでも取り上げて描くわけだが、この「人魚伝」はあたかも「砂の女」と前後して書かれた。だから、二つの作品が問題意識を共有しているのは不自然ではない。




  
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