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なわ、無関係な死:安部公房の短編小説


安部公房は、本格的な小説を書く合間に、短編小説を書いて、コンディションを整えていたフシがある。特に、1951年の「壁」から1962年の「砂の女」までの約十年間は、長編には力作が無く、短編小説にすぐれた作品が多い。新潮文庫の「無関係な死・時の崖」に収められた十篇の短編小説は、そうした作品を代表するものだ。

この十篇のなかで、「なわ」と「無関係な死」は、どちらも殺人をテーマにしている。前者は二人の幼い少女が父親をなわでくびり殺す話であるし、後者は誰かに殺された人間の死体がある日突然自分のアパートの部屋に投げ込まれているのを見た男が、なんとかしてその死体を片付けようと、やっきになるという話である。

殺人とは、人が人を殺す行為であるから、当然のことながら殺す人間と殺される人間がある。殺される側には殺される意味は存在しない場合が多いが(委託殺人でもないかぎり)、殺す側にはそれなりの理由や意味がある場合が多い。「なわ」のケースでは、少女らが父親を殺すのは、そうしなければ自分たちが(親子心中という形で)殺されるという切羽詰った理由があったわけで、その意味では自分を守るための緊急避難的な行いだったと理由付けることができる。

「無関係な死」では、殺された側の人間は出てくるが、殺した側の人間は出てこないので、殺人の動機とか、意味づけについては全くわからない。わかるのは、殺された人間の死体を突然わけもなく押し付けられた第三者の当惑だけである。誰だって、わけもわからぬまま突然死体を押し付けられたら、驚愕するに違いない。だからこの小説は、殺人の意味についてではなく、殺された人間の死体を前にして誰もが抱く可能性のある感情を描くことに主眼があるといえる。誰でもそうした事態に陥る可能性は絶無ではないのだから、あらかじめそうした事態に陥った場合をシミュレーションしておくのも無駄ではない、そう安部は、この小説を通じて読者に呼びかけているのかもしれない。

「なわ」は異常さを感じさせる作品だ。その異常さは、幼い姉妹が父親をくびり殺すという行為の異常さもさることながら、彼女たちがその行為を、まるで大人たちのビジネスを真似するかのように、淡々と行うことからきている。大人だって人を殺すときはそれなりに緊張するものなのに、彼女たちにはそうした緊張の様子が感じられないばかりか、父親をくびり殺す前に、犬を相手にくびり殺すという動作を予行演習するのである。殺人の予行演習は、軍人の訓練としてはありうるかもしれないが、市井のごく普通の人、それもまだ幼い少女たちがするというのは、究極の異常さではなかろうか。

この小説が異常さの故の不気味さを感じさせるについては、小説の語りの仕掛けも作用している。この小説は、出だしからラストシーンの近くまで、つまり小説の大部分を、一老人の視点から描いている。その老人は、監視小屋ののぞき穴から、スクラップ置き場の中を除いているのだが、そのスクラップ置き場というのが、一方が川に面していて、外の三方を壁に囲まれているということになっている。監視小屋の小さなのぞき穴から、壁に囲まれたスクラップ置き場の内部がどのように見えるのか、よくわからぬのだが、安部は細かいことを言わずに、とにかく老人が見た光景を淡々と描写するという形をとっている。幼い少女たちが犬をくびり殺すシーンは、そんな老人の目に映ったままに記述されるのである。ところが、最後の場面になると、老人の視点は消えて、そのかわりに不在の語り手の視点から、少女たちが父親をくびり殺す様子が、淡々と記述される。彼女らが犬をくびり殺すときには、老人の驚愕した視線が我々にその異常さを感じさせるのだが、父親をくびり殺すシーンでは、一切の感情の介在無しに、行為がストレートに叙述される。それがビジネスライクさを感じさせるだけに、余計に行為の異常さがあぶりだされるというわけなのである。

「無関係な死」のほうは、一応三人称の体裁をとっているが、実質的には一人称の小説と言ってよい。登場人物がAという一人の人物だけだし、叙述のスタイルもAの意識の内面に密着した書き方になっているので、Aを私と言い換えても差し支えないほどだ。安部は実質的には一人称の場合でも、三人称で書くことが好きなようだが、それはカフカの影響もあるのかもしれない。カフカの小説も、「変身」を初め大部分が、主人公の意識の内面に密着しながら、一人称でなく、三人称で書かれている。

「客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた・・・見知らぬ男が、断りもなしに、自分の部屋で死んでいる」。「無関係な死」はこんなふうに始まる。死人が自分の部屋に断りもなしに死体となってそこに存在していることについては、その死体自体に責任を求めても無益だろう。死体が自分の意思で他人である自分の部屋に断りもなく横たわることはないからだ。それでもこんな言葉を使わざるをえなかったについては、それを見たAの驚愕が働いているわけだ。この小説は、この最初の驚愕に始まり、全編がAの驚愕と困惑の気持を描いているのである。

安部の小説には、危機に直面した主人公が、その危機を回避しようといて色々もがきながら、自分を更に深刻な危機に陥れてゆくというパターンが多いが、この小説の主人公であるAもそのパターンの典型だ。彼は、自分の部屋に見知らぬ死体が横たわっている事態を自分にとっての深刻な危機とみなし、それを自分ひとりの力で解消するために、さまざまなことをする。だがそれが悉く裏目に出て、危機は一層深刻さを増し、ついには破局的な結末を招くのである。

主人公の選んだ危機回避策とは、その死体を他人に押し付けることだった。自分も断りも無く押し付けられたのだから、それを他人に付回しするのもひどいことではない。もしかしたら、自分が付回しした人間が、この死体を自分に押し付けた張本人かもしれないのだ。そんな理屈をつけて、主人公は何とか人に覚られずに死体を他人の部屋に運び去ろうと努力する。その過程で、ああでもない、こうでもないと、下手な考えをめぐらすのだが、その考えをとっさに実行するたびに、事態はますます深刻化し、コントロール不能の状態に陥ってゆく。それを主人公は呆然とした気持で受け止める。「無罪というのは、けっこう骨の折れる仕事である」と言いながら。彼は自分が無罪放免になるのを望んでいるのだが、限りなく有罪の境遇に自分自身を追いやってゆくのである。

こうしてみると、この小説の主人公は、一応自分の運命を自分で切り開こうとしている限りにおいて、自分自身の主人ではある。そこが安部のほかの多くの小説と違うところだ。安部の小説の主人公の多くは、全く理解のできないままに思いがけないことがらに襲われ、それに対してなすすべもないままに、どん底に向かって下降してゆくというタイプだったのが、この小説の主人公は、断りもなく押し付けられたとはいえ、事態が理解できないわけを、なんとか理解しようとしながら、一応自分の意思でその事態に対処しようとするわけである。そこがこの小説のユニークなところだ。




  
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