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安倍公房「燃えつきた地図」を読む


すぐれた小説の重大な要素として、小説を締めくくる最後の言葉がある。安倍公房の小説「燃えつきた地図」は、次のような言葉で終わる。「轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」

僕がこのような気分になったのは、名前を失ってしまった自分が、もはや名前など必要としなくなった猫のために名前をつけてやろうとしたことの、ばつの悪さを感じたからに他ならない。この小説の主人公であるぼくは、安部のほかの小説の主人公同様に、名前を失ってしまうのだが、他の主人公が名前を失ったあとに小説に登場するのに対して、この小説の主人公であるぼくは、小説の最後の部分で名前を失うのである。しかもぼくが失うのは名前だけではない。記憶の一切合財を失ってしまうのである。

名前を含めて記憶の一切合財を失ってしまった事態を、安部は遺棄された大便に喩えている。ラストから少し前のシーンで、主人公のぼくは電話ボックスの片隅に遺棄された大便の塊を見出す。この大便を出したのは、「この、都会という無限の迷路の中で、数えきれないほど存在しているはずの便器の中の、わずか一つの利用さえも許されなかった、孤独な男」だとぼくは思うのだが、そう思いながら「その男が、公衆電話のボックスの中に、かがみ込んでいる姿勢を想像すると、ぼくは恐ろしくなってしまったのだ」

この恐ろしさは、本来なら見慣れた風景であるはずの世界の中で、名前さえ失って、つまりなにもかも失って、孤独に耐えている自分の姿を思い起こさせるからだ。その孤独が大便のイメージと結びついたのは、大便とは本来自分と世界とを結び付けている証拠のようなものだからだ。人は世界の中に大便を落とすことで、自分がその世界の中で生きていることを実感する。小説の始まりに近いところで、ぼくにこう言った人物がいる。「力ずくで追い出されでもしないかぎり、私はここに、死ぬまでだってしがみついていてやりたいね、人間、飯食って糞たれる、食える場所から動いちゃ損だし、糞だって、同じ場所でたれているほうが、ずっと通じもよろしいようですしな」

通常、人が自分の名前を思い出せないのは、それについての記憶を失っただけであって、名前自体がなくかったわけではないが、当の本人にとっては、記憶を失ったも名前がなくなったも同じことだ。思い出せないから名前を失ったことになるのか、名前を失ったからそれを思い出せないのか、本人にとっては同じことなのである。ではこの男は何故自分の名前と、それにまつわる過去の記憶を、失ってしまったのか。そのいきさつを読者に伝えるのがこの小説の思惑(あるいはこの小説を書いた安部公房の思惑)なのだと思う。

この小説は、突然姿をくらました男、つまり失踪者の行方を捜査するよう依頼された興信所の探偵が、その行方を追っているうちに、自分自身が記憶を失うような状態、その点では世の中ならいなくなったも同然の状態、つまり失踪者と同じ境遇に陥ってしまうという不条理な過程を描いている。失踪者の行方を探偵が追いかけるという点では、ある種の推理小説ともいえるが、あらゆる推理小説には終わりとしての事件の解決というものがあるのに対して、この小説にはそのようなものはない。失踪者の行方を追っていたつもりが、自分自身がこの世からはみ出してしまうという点では、解決というよりも、一層の紛糾が待ち受けているわけである。

失踪者の操作を依頼してきたのは、その失踪者の妻なのだが、この妻が、不思議なことに、捜査に対して積極的に協力しようとしない。そこで探偵のぼくは、妻は実は失踪者を探すことが目的ではなく、違う目的、たとえば失踪者の行方を捜査してみたが結局は見つからなかったということにして、失踪を目隠ししようとしているのではないかと疑ったりもする。とにかくこの女は、自分からは積極的に情報を提供しようとしない。そこでぼくの方から仕掛けることになるのだが、彼女が饒舌になるのはビールを飲んでいるときだけだ。そんなわけで、「彼女にはビールが必要なのだ。ぼくにも、ビールを飲んだ彼女が必要だった」ということになって、ぼくは彼女と会うたびに一緒にビールを飲むはめになるのである。

ぼくの前には、彼女の弟と称する男とか、失踪者の会社の部下と称する男が出てきたりして、なにかとぼくを不思議がらせる言動をした挙句に、揃って死んでしまう。弟は喧嘩に巻き込まれて殺され、部下は首をくくって死ぬのだが、その部下がなぜ首をくくったのか、その動機は、小説からはなにもわからない。ぼくに電話をかけてよこし、そのなかで自殺を宣言したあとで首をくくるのである。弟にしても、なぜ彼がぼくの前に執拗に現れ、そのあげくに殺されてしまわねばならなかったのか、これについても小説はなにも語っていない。語っているのは、不条理な死を前にしてうろたえているぼくの気持だけだ。

そのぼくが記憶を失うほどのショックを受けたのは、正体不明の男たちからリンチされたためだった。このリンチも、なぜぼくが受けねばならなかったのか、小説は何も語らない。いきなりぼくが男たちに攻撃され、記憶を失うほどのショックを受けたというだけだ。その結果ぼくは自分の名前を失ってしまったのだが、「自分が自分であるという自覚」だけは失わないでいる。

この小説は、かなり不気味な印象を読者に残す。それは終わり方が異常なためだ。小説の本体ともいうべき部分、つまりスタートからかなりの部分は、通常の推理小説とあまり異ならない手法で書かれている。たしかに弟が殺されるとか部下が首をつるとか異常な出来事はあるが、それも普通の推理小説を甚だしく逸脱しているとまではいえない。ところが最後の部分でいきなり、主人公のぼくに不可解なことがおこる。その不可解さは、主人公の意識の中で整理されず、また語り手である作者も闡明することをしていないので、読者の目には何が何だかわからない。主人公がいきなり、飛んでしまったかのように、世の中からはみ出してしまうのだ。

こういう書き方は、推理小説としては失敗だろうと思う。何故ならあらゆる推理小説には終わりとしての解決がある。ところがこの小説には、解決らしいものがないばかりか、事態がますます紛糾する中で、何となく終わってしまうのだ。そういう終わり方は、推理小説ではありえないことだし、普通の小説としても異常だといえよう。無論、その異常さを安部は狙ったのだと、言えないわけではない。


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