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安部公房「他人の顔」を読む


安部公房は、処女作「壁」の中で、名前を失った男の話(S・カルマ氏の犯罪)や影を盗まれた男の話(バベルの塔)を書いたが、それらは人間にとってアイデンティティとは何かという、ある意味根本的な問題を取り上げたものだった。そういう意味では非常に理屈っぽい作品だったわけだ。「他人の顔」も、大やけどがもとで生まれながらに持っていた顔を毀損してしまったという意味で、本来の顔を失ってしまった男の話であり、顔というものが人間にとってもつ決定的な意義を考えれば、やはりアイデンティティの危機についての話だということができる。しかもその危機へのこだわりが、前の二作品におけるよりも深化しているという点で、理屈っぽさは一層先鋭化している。この小説は、小説でありながら、ある人物の、自分の存在意義についての、堂々巡りを思わせるような、長たらしく、かつネトネトとしたつぶやきからなっているのである。

人間にとって顔を失うということが何を意味するのか。この小説の主人公にとっては、とりあえず自分がそれまでの自分ではなくなったという実感とともに、自分が自分の生きている世界にいるべき場所をもたないという疎外感のようなものとして、それは迫ってきた。一番ショックだったのは、自分の妻から自分の人格を否定されたことだ(セックスを拒否するという形で)。すくなくともこの主人公はそう受け取ったわけである。自分の内部では自分自身との一体感を持てず、外部との関係では疎外感に襲われる、というのは明確なアイデンティティの危機である。それを主人公なりに克服しようとするプロセスを描くのが、この小説の内実になっている。この小説はアイデンティティの危機に見舞われた人間が、それをとりもどそうとして試行錯誤する過程を描いたものと言えるのだが、その試行錯誤が、我々普通の人間には異常に映る。だがその異常さが、この小説を面白い小説たらしめてもいるわけである。

顔を失う、というのは比喩的な表現で、実際には大やけどのせいで、顔が醜く変形してしまったのだ。この主人公は、どうやら化学薬品の製造に携わっているらしいのだが、その製造過程の実験に失敗して、顔に大やけどをおい、そこがケロイド状になってしまったのだ。主人公はその状態を、顔一面に蛭が付着していると表現している。それを隠すために、主人公は顔一面に包帯を巻いているのだが、それがうっとうしくて、仮面をつける決意をする。それも、今までの自分をすこしでも回復するために、失った顔に似ている仮面を作ろうというのではなく、全く赤の他人の顔になりたいと願うのである。主人公がなぜ、そのように願うに至ったのか。それは小説の中で追々明らかになってくるが、どうやら自分を拒絶した妻への復讐のためということらしい。そこが我々普通の人間には異常に映る。アイデンティティを取り戻すには、アイデンティティを支えていたものをなるべく回復しようとするのが自然の勢いだと思うのだが、この男の場合には、全く違う人間の顔になることで、全く違うアイデンティティを獲得しようとするわけである。その心理的なメカニズムにどんな正当性を認めることができるか。どうもこの小説にはそこを明らかにすることまでは期待できないようなのだ。

全く違う人間になりきることで男が意図したのは、その違う人間として妻を誘惑し、そうすることで、妻を自分の手に取り戻すとともに、妻に不倫の罪を犯させることで、自分が精神的に優位に立つ、ということだった。妻を自分の手に取り戻すとは、妻が自分に対して拒絶したセックスを自分の身体で再び味わうことができることを意味するわけだが、それがなぜ、他人の顔を通してでなければならかなったか、それには納得のある説明はない。妻に対して精神的に優位に立つ、などというのは説明になっていない。唯一説明らしいものがあるとすれば、それは自分を拒絶した妻への復讐ということになるが、たしかにそういう考えを主人公が持っていたことはほのめかされるが、それに突き動かされて行動したというわけでもない。主人公が他人の顔の仮面をつけようと決意した背景には、色々偶然の事情も絡んでいるのである。だから小説を読んだ限りでは、主人公は何気なく他人の顔を付けたいと思うようになり、他人の顔をつけたからには、その顔に相応しい行動をとるのが自然だと思うようになり、その行動はいままでの自分の行動とは異なった傾向のものでなければならぬ、と主人公が考えたということが伝わってくるだけだ。自分の行動とは全く違う行動とは、新しい顔の自分が、妻を強姦するというものだった。今までの自分なら、そんなことは思いも及ばなかった。だが他人の顔をつけた他人としての自分ならできるかもしれない。それは自分にとっては、新しいアイデンティティの中核的な要素になるだろう、主人公はそう思うわけである。

こう整理すると、この小説は、アイデンティティの交換をめぐる物語だということになる。古いアイデンティティを捨てて新しいアイデンティティを獲得する。そうすることで、新しい自分に生まれ変わる。そうすることで、自分はなにか素敵な贈り物を自分に対してしたことになるのか。そういう疑問が生じるのは自然であるが、この小説は肯定的な答えを準備していない。というのも、主人公のもくろみは、妻の前であからさまにあばかれて、妻によって嘲笑されてしまうからだ。嘲笑された主人公は、そのことに軽いショックを覚えるが、それは致命的なショックではない。たかだか腹を立てた程度のものだ。こういうわけでこの小説は、なにを言いたいのかよくわからないところがある。それは、人間のアイデンティティそのものが、そんなに単純なものではなく、かえってわからないことばかりの、不思議なものだということからくる、わかりにくさなのかもしれない、と作者の安部は言いたいかのようでもある。

小説の構造は、主人公による手記という形をとっている。だから一人称の独白体小説だといえる。その独白は妻に向けられている。自分が顔を失ったことで、どんなに不都合な体験に見舞われてきたか、その不都合な体験には、妻であるおまえからセックスを拒絶されたことも含まれているが、そうしたすべての不都合なことに、自分は復讐したい気持を抱いている。と同時に、自分は別の人間の仮面を付けて、その仮面でおまえを誘惑し、そうすることでおまえを取り戻したい。そんな気持で自分がこれまでに行ってきたことを一切合財包み隠さずに、この手記の中で明らかにした。だから是非それを読んで欲しい。そう言って主人公は手記の中で長たらしい呟きを続けるのだが、この小説の醍醐味のほとんどは、その呟きから伺われる主人公の人間観とか世界観とかいった部分なのである。そのいくつかを取り上げたい。

まず、人間にとって顔が持つ意味について。主人公は、顔を失ったくらいで、自分の人格全体が失われたと感じるのは理不尽だととりあえずは思っている。「人間という存在のなかで、顔くらいがそれほど大きな比重を占めたりするはずがない。人間の重さは、あくまでもその仕事の内容によって秤られるべきであり、それは大脳皮質には関係しえても、顔などが口をはさむ余地のない世界であるはずだ。たかだか顔の喪失によって、秤の目盛に目立った変化があらわれるとすれば、それはもともと内容空疎であったせいにほかならない」。こう主人公が考えるのに対して、主人公が相談に訪れた整形外科医は、顔が人間にとっては極めて重大なことは、戦場の兵士が自殺する理由の大部分が、顔をひどく損傷したことにあることからもわかる、と主張する。「外傷、とくに顔面の傷の深さは、まるで写し絵みたいに、そっくり精神の傷になってのこる」というのである。この話は、主人公の気持を暗くするばかりで、顔についての彼のコンプレックスを深めるだけなのであるが、その分、顔についての彼の思索を深める契機にはなるのである。

主人公の思索は、性と死をめぐっても展開する。主人公は思う、「性とは、人類的な規模での、死との戦いに他ならなかったのだ・・・その証拠に、兵士はすべて、確実に痴漢化する」。これはするどい指摘だ。安部自身の見聞に裏付けられているのだろう。ともあれ主人公がこんなことを考えるのは、妻にセックスを拒絶されて欲求不満の状態に陥っていることのあらわれなのであるが、主人公はその妻に対して、どういうわけか、嫉妬の感情も抱いている。その感情は、「文明の産物だという説と、野獣にもそなわっている原始本能だという説との、二つあるようだが」、主人公は後者のほうだろうと推測する。自分の妻に対する嫉妬の感情には、とても文明的な要素はみとめられないからだ。

主人公は、顔を失ったことで、この世界から疎外されたと感じるわけだが、その疎外感を主人公は、自分が巨大な監獄島にいることに喩えている。「彼等が問われている罪名が、顔を失った罪、他人との通路を遮断した罪、他人の悲しみや喜びに対する理解を失った罪、他人のなかの未知なものを発見する義務を忘れた罪、ともに聴く音楽を失った罪、そうした現代の人間関係そのものを現わす罪である以上、この世界全体が、一つの監獄島を形成しているのかもしれないのだ」というわけである。

そんな世界であっても、そこに生きている限りは、生存していかなければならない。ところで生存の目的とは何か、それは、「おそらく、自由を消費することなのだ」と主人公は考える。そこで「もっとも純粋な自由の消費が、実は性欲だった」というところに舞い戻ってくる。この主人公の生存は、どうやら性欲と嫉妬によって駆動されているらしいのである。それがどのような経路で仮面と結びつくのか、この小説はその疑問に答えるために、膨大な言葉を費やしているようにも見える。


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