日本語と日本文化


安部公房の短編小説:デンドロカカリアと水中都市


安部公房は「壁」と前後して何本かの短編小説を書いている。その中で今日でも色あせて見えないのは「デンドロカカリア」と「水中都市」だ。どちらも人間の変身を描いている。「デンドロカカリア」のほうは人間の男が植物に変身する話だし、「水中都市」のほうは、肉体的には人間の外形を保ったままであるが、機能的には魚となって水中の都市を遊泳する男たちの話だ。

「壁」が不条理な訴追をテーマにしている点で、カフカの「審判」を想起させるのに対して、この二つの短編は人間の変身をテーマにしている点で、同じくカフカの「変身」を想起させる。作家としてデビューした当時の安部がいかにカフカに影響されていたかを、これは物語っているようである。

カフカの「変身」は、ある日突然巨大なゴキブリになってしまった男の狼狽と絶望を描いているのに対して、「デンドロカカリア」の主人公は、徐々に植物へと変身してゆく男の狼狽と諦念を描いている。カフカの主人公がいきなり巨大なゴキブリに変身してしまうのは、現代人の不安定な境遇を象徴するものとしての意義があったのだと思うのだが、安部の主人公が徐々にデンドロカカリアという植物に変身することにはどんな意義が込められているのか。当然気になるところだが、安部はただ男が植物に変身してゆくプロセスを淡々と描くだけで、説明めいたことは言わない。人間が植物に変身するのは、たしかに正常なこととはいえないかもしれないが、かといって理解を超えた異常事態ともいえないのではないか。ある種の人間にとっては、起こりうることなのだ、というようなさめた書き方をしている。

「水中都市」の主人公の場合には、父親と名乗る老人がいきなり現れたかと思うと、ある日突然魚になってしまい、魚であるから水の中にいるのが当たり前ということで、この世界が突然水中に変わってしまう。そういう事態に直面した主人公は友人とともに、その水中を漫然と遊泳するのだ。何故父親が魚に変身し、その後で世界が水中に没してしまうのか、そのへんの事情についてのうるさい説明は、安部は一切しない。ただ事前にそれとかかわりのありそうなことを、友人の描いた絵を通じてほのめかしているだけだ。ともあれ世の中にはこういうことも往々にして起こるものなのだと、いたって諦観した書き方をしているのである。

こういう話を聞かされると、今日の人達はSF小説を読みなれているせいか、それを純粋にエンタテイメントとして受け取るのだと思うのだが、そういう読書体験がまだ一般に普及していなかった敗戦直後の日本人には、安部のこれらの小説はきわめて奇異に映ったことだろう。そうであるとすれば、これを読み流すのではなく、この話の中にはなにかしら寓話的な教訓が潜んでいるのではないかと考えるのは無理もない。安部の文章にもそんなふうに思わせる寓話的な表現が出てくる。「デンドロカカリア」の場合には、人間が植物に変身することの素晴らしさを説くのに「政府の保証つきですよ」という言葉が出てくるし、「水中都市」の場合には、「二つの運命が君のお父さんを待っている。あらたに訓練を受けて警察魚になるか、死刑になって調理されるかだ」

こんな言葉に接すると、安部は同時代の日本の息苦しさを皮肉っているようにも読み取れる。植物になって沈黙することは「政府保証」の望ましい生き方であり、政府の手先となって働くのをこばむ奴は消されても当然だ、というのは、安部が読者に向かって、あなたも模範的な市民として、政府に服従し、余計なことはいわずに黙っているのが利口な生き方だ、とすすめているようにも受け取れる。無論その正反対にも受け取れるのはいうまでもない。こういう見方がもし成り立てば、安部は結構政治的な姿勢をこれらの作品に反映させているということになる。

「デンドロカカリア」という言葉は、デンドロビウムをもじったつもりだろうか。安部はこの植物を「菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹」と表現しているので、そこからはラン科の植物というイメージは伝わってこないのだが。




  
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