日本語と日本文化


昭和天皇は言語能力が低かった? 丸谷才一説


「昭和天皇は言語能力が低かった」、こんな趣旨のことを丸谷才一さんが「ゴシップ的日本語論」という小文の中で書いている。丸谷さん自身は昭和天皇について詳しく研究したわけではないらしいので、その説は鳥居民氏(昭和二十年)とハーバート・ビックス氏(ヒロヒトと近代日本の形成)の研究をよりどころにしている。

鳥居氏の説を要約すれば、昭和天皇は、「よく言へば過保護、悪く言へば事なかれ主義的な教育をしたせいで、口下手で他人と十分に話ができない、語句も乏しく、単純な受け答への言葉も知らないし、人に対する呼びかけの言葉すら知らない方ができあがった」

なんでこんなことになったのか、それは皇太子時代の昭和天皇の周囲にいた連中が、「明治天皇の威厳のある神々しい帝王を空想的に思ひ描いて、臣下に向かって威圧的に語る、寡黙な君主に仕立てようとした結果なんでせうね」と推測している。

「その結果、昭和天皇は、何を語っても言葉が足りないし、使ふ用語は適切を欠き、語尾がはっきりしなくて、論旨の方向が不明なことを述べる方になった」

丸谷氏は、こう断定したうえで、昭和史の不幸の大きな原因となったものの一つに、昭和天皇の言語能力の低さがあったと結論付けている。というのも、昭和天皇は、「ご自分の意見を首相とか参謀総長とか軍令部総長とかに伝へることができない。そしてさらに、政府と軍との意見が分かれたときに、口を出すことを回避する、さういふ方になった」 このため、国策の決定にあたって無責任な空気が支配するようになり、日本は暴走したというのである。

しかし、天皇の言語能力の低さについて、昭和天皇ばかりを責めるのも気の毒だ、丸谷さんはそうも感じたらしく、次のようにも書いている。

「天皇家にはかういふふうに首相とか参謀総長とかに親しく語りかけて詳しく論じ合ふやうな伝統はまったくないわけですね・・・天皇の言語生活の伝統はどういふものであったかたいふと、宣命といふ和文体の勅語を口でいふ。口でいったかもどうかも怪しいのであって、これはみんな女房たちが書いたのじゃないかといふ説もあるくらゐです。それから和歌を詠む。この二つが天皇の言語生活であった。とすれば昭和天皇は、あの家柄において突如として政治向けの言語生活を要求された非常にかはいさうな方であった」

そういわれてみても、我々庶民には真偽のほどを確かめる手段に欠けるのであるが、ひとつだけ材料がある。昭和20年8月15日の正午に行われた、あの玉音放送である。あれを聴いてみると、声の出し方がちょっと異常だし、また言葉の区切り方も不自然だったりして、日本語の使い方としては、たしかにスマートではない。丸谷さん自身は、それは昭和天皇が初めてマイクを前にして上がってしまったからなんだろうと、好意的に受け止めていたということだったが、改めて分析すると、昭和天皇の言語能力の低さを示す材料にはなるかもしれない。

こんな丸谷さんの説に接して、筆者は非常に意外に思った。筆者が抱いている昭和天皇像など、ほとんど不明瞭といってもよいのだが、半藤一利さんらの昭和史を読む限りでは、昭和天皇は極めて政治的な発言を常に行っていたようだし、国の方向についてご自分なりのヴィジョンも持っておられたように感じていた。日本が敗戦を受け入れ、無条件降伏をするという決断をするにあたっても、昭和天皇は大きな役割を果たされたということになっている。

歴史家の研究だけではなく、たとえば「昭和天皇独白録」を読むと、昭和天皇が全くの言語音痴だったというイメージは伝わってこない。むしろ非常に理知的である、という印象さえ受ける。もっとも、この独白録は、天皇の語ったとされることについて、側近のものが記録したものなので、どこまで天皇自身の肉声を伝えているのか、完全にわかっているわけではないのだが。

丸谷さんが、この小文を書いたのは、昭和天皇一人を批判する目的からではなかった。言語生活というものが、いかに大事なものかを証明するための材料の一つとして使ったわけなのだ。もう一つの材料は、あの小林秀雄で、小林は丸谷さんに言わせれば、言い方は威勢がいいが、中身が曖昧模糊としており、何を言っているのかわからない、ということになる。

つまり日本人の言語生活は、政治の場でも、文芸の場でも、まだまだ一流とは言えない。憲法にしてからが、そこに使われている言葉はひどい日本語だし、歴代の総理大臣にも、ひとりとしてまともな日本語を話せた人間はいなかった。そんなわけだから、昭和天皇の言語能力の低さは、日本人全体の言語能力の低さを象徴しているのであり、それは日本人が言語生活を軽んじていることの結果なのである、と丸谷さんはいいたいのだろう。




  
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