日本語と日本文化
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未来の日本語:水谷静夫「曲がり角の日本語」


日本語は比較的に変化の激しい言語に属しているとは、筆者もかねがね思っていたところだ。徳川時代に書かれた近松門左衛門や井原西鶴の文章を、たとえば村上春樹の書いた文章と比較してみれば、わずか300年くらいの時間の流れの中で、日本語の表現が随分と違ってきたことが納得されよう。ジョン・ダンの書いた英語が現代イギリス人にも身近に理解されるのとは、かなり違うことだけはたしかなようだ。

水谷氏は、そうした日本語の特性を踏まえて、日本語はこれからもどんどん変化し、21世紀の末頃には、いまとはかなり異なった様相を呈するだろうと予想している。

ただ、文法の枠組みが大きく変わるようなことはないだろう。しかし個々の単語は今とはかなり違ったものになるだろうし、動詞や形容詞の活用も変化しているだろう、そう氏は言う。

動詞については、徳川時代までの日本語と現代日本語ではかなりの変化があった。4段活用から5段活用へ、二段活用から1段活用への変化がその最たるものだ。この変化の趨勢は今後も続いていくだろう。

たとえば、さ・か行変格(氏は三段活用という)においては、「する」や「くる」は「しる」や「きる」になる可能性が高い。たとえば「議論しる」といった具合だ。これは「信ずる」が「信じる」になったのとパラレルな現象だ。

いまでも奇異に感ずる人の多い「ら抜き」言葉は、さらに進行して支配的な表現になるだろう。「ら抜き」言葉はいまでも、可能に関して用いられ、受け身について用いられることはないが、将来はすべての可能表現に「ら抜き」ことばが用いられることで、可能と受け身とが画然と区別されるようになるだろう。

「が」や「を」といった格助詞は今でも使い方がいい加減になっているが、この傾向はもっと強まるだろう。というより消滅するかもしれない。格助詞の代わりに「とか」で済ますのだ。たとえば「地震がありました」を「地震とかありました」といった言い方だ。

格助詞が残っても変な使い方が横行するだろう。いまでも、「正座する」を、「正座をします」とか「正座がします」とかといった言い方になっているのを、テレビで聞くようなありさまだ。

場所や時間を表す「に」という格助詞はだんだんと「で」で置き換えられていく、そう氏は言う。「関東地方に地震があった」を「関東地方で地震があった」と言う具合だ。

助動詞も衰微していく。活用が貧弱になり、已然形などはなくなる可能性が高い。他の形で代用可能だからだ。たとえば「らしければ」は「らしいなら」と言い換えることができる。

また「ありません」は「ないです」と言い換えることができるが、これは助動詞全体が衰微して体言が優勢になる前兆といえるという。

個々の名詞の変化はもっと急速に進むだろう。いわゆる横文字言葉が更に増えて、見た目にもカタカナが氾濫するようになるだろう。「切符を買う」は「チケットゲットする」になり、「劇場に行く」は「シアターする」になるかもしれない。

男言葉と女言葉の差異もなくなるだろう。氏によればもともと日本語には女言葉などと云うものはなかったそうなのだ。歴史的に見れば、徳川時代の末期から現在までのごくわずかな期間の現象にすぎない、と氏は言う。

しかし、敬語がますます混乱し、女言葉もなくなってしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。殺伐としたイメージしか湧いてこない。

氏は最後に、21世紀末時点における日本語はこんな風になっているのではないかと、考えられるサンプルを、忌々しそうに紹介している。

「今、文法簡素化の大勢とか述べたが、動詞の活用の種類が簡素化しるとともに、基本語以外の動詞はだんだん使われなくなって、漢語やカタカナ語にシル、ヤル、時によってはヅケルをつけた形で代用しられるだろう。結果、<切符を手に入れたから芝居を見に行こう>を、<チケットゲットしたからシアターしよう>というの、珍しくなくなる」

これは話し言葉ではない、立派な学術論文の言葉なのだ、といって、氏は嘆息するのである。


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