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奉りそこないの敬語:水谷静夫「曲がり角の日本語」


岩波国語辞典の編集者水谷静夫氏の「曲がり角の日本語」(岩波新書)を読んだ。岩波国語辞典の初版から第7版まで編集したとあって、その間の日本語の変遷をずっと見つめてきた、そんな人が書いた日本語批判だから、なかなか説得力がある。

氏の基本的なスタンスは「言葉は移ろうのが当たり前」ということだ。だから普通の老人のように「今どきの若いもの」とは、気軽には言わない。その代わり、移ろい方を問題にする。移ろい方の中には、一定の法則性が認められ、したがって必然性のようなものを認められるものがある一方、言葉の使い方がだらしなくなって、聞くに堪えない、我慢がならない、そういうものも当然あるからだ。

我慢がならないものの代表は敬語の使い方だ、と氏はいう。今どきの若いものが使っている敬語は敬語ではない、ただの婉曲表現だ。そのうえ、婉曲的にいうことで断定を避けようとする。そんなものは責任逃れ以外の何物でもない、と鼻息が荒い。

若者の言葉使いをこんな風にしたのは、戦後の国語教育がいい加減だったからだ。とりわけ国語審議会の連中はみな頭の悪いやつばかりで、法則性も何も考慮しないで日本語をいじったために、日本語はわずか数十年でろくでもない方向をたどってしまった。

国語審議会が犯した罪の中で最も重いものは、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに置き換える過程で、日本語がほんらい持っていた法則性の多くが破壊されたことだ。その結果今の若い連中は、言葉の成り立ちについて正確な理解ができなくなってしまった。

敬語についても国語審議会の罪は大きい。この連中の言う敬語とは、相手に敬意を表すための言語的な表現ということらしいが、日本語にはそもそもそんなものはなかった。日本語にあったものは、言明の対象となる人物たちの相対的な関係を表すための表現の体系だ。それは別に敬意とかそんなものを表すのが目的ではなく、言明の対象としている人物たちが、どんな関係にあるかをあらわすことだ。

たとえばA、B二人の人物について、「AはBのところに参りました」といえば、AよりもBの方が上だということがわかる。「AがBのところにまかりました」といえば、AよりBの方が下だということがわかる。「AはBに差し上げた」といえば、AはBを奉っていることになる、「AはBにやった」といえば、AはBにたいしてぞんざいな態度をとっていることになる。

これらはみな敬意とは、直接は関係がない。だから敬語といってはならない。大正時代の文法学者松下大三郎にならって、「待遇語法」とでもいうべきだ。つまり人と人との関係を表す語法という意味だ。こうとらえれば、ののしり言葉も敬語の一種なのだということが良く理解できる。また敬語とは本来、第三者への言及においてもあらわれるということが、よくわかる。

今どきの若いものは、敬語の成り立ちがよくわかっていないから、敬語の使い方にも自信がない。彼らはそれを、婉曲にものをいう手段として使っているに過ぎない。敬語の持つ丁寧な表現という特性を用いて、なんでも敬語らしい言い方をすれば、余計な摩擦がさけられるだろう、そういう配慮が働いているにすぎない。

だから「させていただきます」の類のやたらもったいぶった言い方が氾濫し、なかには「このお茶コクがおありになりますね」みたいな、それこそ臍がこそばゆくなるような言い方まで現れる。

これでは奉りそこないだ、と氏は憤懣やるかたない、といった様子なのである。


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