日本語と日本文化
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少女が自分を「ぼく」と呼ぶとき:日本語を語る


小学生高学年から中学生時代にかけての少女たちが、自分をさして「ぼく」といったり、わざわざ男の子のように乱暴な言葉遣いをすることがある。これは世の親たちにとって、よほどショッキングなことであるらしい。新聞の投書欄には、自分の娘が男の子のような言葉遣いをするといって、嘆き悲しむ趣旨の記事がしょっちゅう見受けられる。

そうした母親にとって、言葉というものは、男の子で生まれてきたか、女の子で生まれてきたかによって、おのずから使い方に相違があるのは、悠久の昔から明らかなことであったように思われるようだ。男の子は男らしい話し方をするべきなのであり、女の子は女らしい言葉遣いをするべきなのだ。

だから自分の娘も一定の年齢に達すれば、女らしい言葉遣いを身に着けてほしい。自分のことをさしていうときには、普通の女性と同じように、「わたし」といって欲しい。自分たちが少女だった時代には、みなそのようにしてきたのであり、それが日本語本来のあり方なのだ。

ところが近頃の日本語はすっかり乱れてしまった。中でも女の子が自分をさして「ぼく」というなど、とても受け入れることはできない、母親たちをはじめ、世の中の大人たちはこういって嘆くのだ。

だが、言語学者の中村桃子によれば、少女が自分を「ぼく」と呼んだり、男の子のような言葉遣いをするのは、何も最近に始まったことではない。明治時代を通じて、少女の男のような言葉遣いは、批判され続けてきたが、それは裏をかえせば、女の子が男のような言葉遣いをするのが決して珍しくなかったことを物語っている、そう女史はいって、女の子が男の子のような話し方をすることを擁護している。

そこで女史は、昭和18年に書かれた、木枝増桝一の次のような文章を紹介している。(「性と日本語」NHKブックス)

「ぼくは絶対に女子の使う言葉ではありません。若し若い女子が僕とか君とかを使ったとしたら・・・そういう女子は日本の女子ではないと言わなければなりません」(言葉遣いの作法)

この文章からは、その当時男の子のような言葉遣いをする少女たちが、大人たちの気になるほど多く存在したということがよみとれると女史はいう。またそのことに対して、このような苦言が呈せられている背景には、少女というものは普通の女性と同じように、女に相応しいことば、つまり女ことばを話すべきだという信念が潜んでいることの現われだと女史はいう。

そこで女史は問題を提起する。日本の少女たちは何故、男の子のような言葉をするようになるのか。

先稿でも触れたとおり、日本語には自称詞をはじめ、話し手の性別を強く意識させる言語の体系がある。この性差は特に女の場合に、強い規範性となって彼女らの話し言葉を制約する。女は決して男のような言葉遣いをしてはならないのだ。

だから日本の女性たちが、幼児期から少女の時期を経て成人の女性へと変化するのに対応して、彼女らの言葉遣いも、女に相応しいことば、つまり女ことばを話せるようになることを期待される。

幼児期の頃は、男女どちらも性差を感じさせない幼児ことばを話している。幼児たちは自分のことを「○○ちゃん」と呼び、同じようなニュアンスのことばをしゃべる。ところが小学生の高学年ともなれば、こうした言葉遣いは幼い証拠だとして次第に脱却されていく。

そのときに男の子のほうは自分を「ぼく」と呼ぶようになり、また次第に骨格のはっきりした標準語を話すようになる。それに対して、女の子の方は、自分を「わたし」と呼ぶように求められ、またいわゆる女ことばを話すように教育される。

この状況をよく分析してみると、男と女とでは、言葉遣いを通じて自分のセクシュアリティを認識する度合いに違いがあることが分る。男の子のほうは次第に標準語をしゃべるようになるが、そこには自分のセクシュアリテイをことさらに意識させるような要因はほとんど働かない。というのは標準語というのは、先稿でも触れたように、もともと男子のことばを基にして作られたものだからだ。

ところが女の子のほうは、幼児期の言語から女ことばへと誘導されることによって、自分が女であることを強く意識させられるのである。

女であることはどういうことか。これはなかなか難しい問題だが、少なくとも少女たちにとっては、言葉づかいというものを通じて、昨日までの小さい女の子としての自分から、突然「女」への転換を迫られ、外的に強制されたような形で、自分が女であることのアイデンティティを意識させられる、そのことが彼女らにとってはとまどいの種になるのではないか。

少女たちは小さな女の子から一人前の女へと成長する過程の一時期に、男の子と同じように話すことで、一気にではなく徐々に女へとなっていけるように、助走をしているのではないか。

そうだとすれば、少女が自分を「ぼく」と呼ぶのは、決して親たちが嘆くべきようなことではなく、彼女らが成長していくうえでの、必要な緩衝材だということもできる。

これは、言語そのものの中に、性差を組み込んでいる日本語に特有の現象かもしれない。


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