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シーン:静かさの表現


現代の日本語には、静かさを表現するものとして、「シーン」という言葉がある。今では当たり前の表現だが、そんなに古い言葉ではない。文学作品上に始めて現れるのは、夏目漱石の「虞美人草」の中でということだ。昭和になってから、「鉄腕アトム」で知られる漫画家手塚治虫が使用したことから、一般に普及したといわれる。

「シーン」という表現にはたしかに、静かさを伝える豊かなイメージがある。山中を歩いている折柄など、自然の静寂なたたずまいを表すのに、この「シーン」という言葉ほど相応しいものはない。

芭蕉は静かさの表現をするのに、静かさそのものではなく、セミの鳴き声を持ち出すことによって、逆説的に表現しようとした。その頃には、静かさを直接言葉で語ることは無粋に思われていたのだろう。静かさとは本来的にネガティブなものだ。言葉はネガティブなものを直接表現するには適していないから、芭蕉はセミの声を前面に押し出すことによって、その裏側にある静かさをクローズアップしようとしたのだろう。

夏目漱石が始めてこの言葉を用いたとき、彼はそれを、ひらがなで「しん」と表現していた。漱石は漢学の素養が深かったから、漢文で静かさを表現する言葉「森閑」をひねって、こんな表現を思いついたのであろう。手塚治虫はそれを「シーン」とひねりかえることによって、言葉にいっそう豊かなイメージを与えた。だからこそ現在の日本人は、この表現を好んで使うようになったと思われるのである。

ところで、この「シーン」という言葉に対応するような音は、現実にも存在するのだろうか。静かさとは音の不在といえるから、それを表す音があるといえば逆説的にも響く。

その辺の事情を、最近のNHKのバラエティ番組が特集していた。山奥の小屋に泊まったある女性が、森に包まれて眠りながら、死んだような静かさの中で、この「シーン」という音を聞いたことがあるというので、その音の正体を確かめるために、科学的な実験を施してみた。どんな音も聞き漏らさない精巧な機械を用いて、山中にこだましていると思われる音を拾ってみたのである。

その結果、客観的な事実としては、そのような音が発せられていということは確かめられなかった。どうも、自然界にはそのような音が生じているという事実はないらしいというのだ。

番組はさらに分析を進め、女性が外界から出ていたように感じた音は、実は自分の耳のなかから出ていた音だったのだろうと推測していた。

人間の耳の奥には「ダンス細胞」というものがあって、外界からキャッチした音を増幅する役目を果たしている。この器官は普通の状態では、さまざまな音を適切な音量に調節して人間の脳に伝えているのだが、音が全くない状態、つまり沈黙の世界にあっても活動をやめない。そうした状態にあっては、周囲の音が全く聞こえない代わりに、この器官が活動することにともなって出る音が脳に伝わり、それがあたかも、外界の音のように聞こえるのではないか。それが「シーン」という音の実体なのであろう、そう番組は結論していた。つまり、静かさそのものを伝えるような音は、自然界には存在しないという結論である。

だが筆者は、自分の経験からして、静かさそのものを表わす音は、自然界に存在すると確信している。

筆者は長い間、人里の中にあってなお山中にあるが如き環境の中で暮らした経験がある。そうした静かな環境にあっては、夜、何一つ音もしない空間の中に「シーン」という音が伝わってくるのを聞くことができるのだ。

筆者はそれを、木が呼吸する音だと感じている。木といえども生き物であるから、樹皮の内部では生命の営みが行なわれている。その最たるものは、樹皮近くを水が往来することであろう。その際には、水の行きかう音が発せられている。普段は聞くことのできない音だが、あたりが完璧な静寂に包まれるとき、その音は空気を伝播して人間の耳にも達するに違いない、そう筆者は思うのである。

春から夏にかけて木の生長が活発になる頃、この「シーン」という音が発せられる。それは木からの命のメッセージともいえる。そんな音を聞く折、筆者は自然に包まれて生きることの微妙な喜びを、感じたりもするのである。


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