日本語と日本文化


好き:愛情を表現する言葉


古代日本語で愛情を表現する言葉を見つけようとして「伊勢物語」にあたったところ、「思ふ」と「恋ふ」とが用いられていたことについては、先稿で述べたとおりだ。このほかに愛情を表現する言葉が古代にはなかったのか、注意深くしていたところ大野晋が、「好き」という言葉が、古代に愛情表現の言葉として用いられていたことを教えてくれた。(日本語の水脈)

大野によれば、「好き」という言葉は平安時代から見える言葉で、男が女に夢中になること、或は逆に女が男への恋に走ることをさしていた。例えば、源氏物語には

かやすき程こそ、好かまほしきは好きぬべき世に侍りけれ(橋姫の巻){身分の高くない者こそ、恋の道に走りたければ、自由に走れるご時世です} 

  すこしはスキも習はばや(蜻蛉の巻){少しは色恋の道も稽古したいものです}

このように、好きとは色恋に関する言葉として使われていたのであるが、ちょっと読んだ限りでは、この場合の「好く」は「思ふ」や「恋ふ」とはニュアンスが違うように受け取れる。「思ふ」や「恋ふ」が、主として主観的な感情を表現する言葉であるのに対して、「好く」のほうは、ある人の状況を客観的に表現する言葉として用いられているように受け取れるのである。

主観的な感情を表現する言葉とは、たとえば現代語で、「わたしはあなたを愛しています」というような言い方の言葉だ。これの延長上で、「わたしはあなたを思っています」あるいは「わたしはあなたを恋しています」とはいえる。しかし、「わたしはあなたを好いています」というのはちょっと不自然だ。「好く」と云う言葉は、おもに客観的な表現として用いられる言葉で、主観的な感情をストレートに表現する言葉ではないからだろう。

源氏物語の時代には、「女を思ふ」とはいえても、「女を好く」とは、どうもいえなかったようなのだ。(もっとも現代語では、「あなたが好きよ」という言い方はある)

このように、「好き」という言葉が、状態を客観的に表した言葉と捉えれば、「好きもの」という言葉のニュアンスもよくわかる。「好きもの」とは、色恋の道に引かれて、つぎつぎと女の尻を追いかけるような男を言うわけであるが、そういう男だからこそ、女の立場からは警戒すべき対象ともなるわけである。

「好き」は、異性に対して夢中になる心情ばかりでなく、歌作りに没頭したり舞いに没頭したりする心情にも用いられる。例えば、能員法師は、

  好き給へ、好きぬれば秀歌は読むぞ(袋草紙)

といっているが、この場合の「好き」とは、歌作りに熱中することを指している。同じように、茶の湯に熱中することも「好き」といったが、どういうわけか、この場合には「数奇」という文字があてられた。これがきっかけで「茶の湯」そのものを「数奇」というようになり、茶の湯を行う場所を「数寄屋」というようにもなった。

東京には数寄屋橋というものがかつてあったが、それは織田有楽齋の屋敷の隣にあったところからそう名づけられたものである。その織田有楽齋は茶の湯の名人として知られていた。だから数寄屋のイメージが自然と浮んできたのであろう。




  
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